城郭探訪

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磯城  近江国(米原)

2015年10月08日 | 居館

お城のデータ

所在地:米原市磯  map:http://yahoo.jp/BoYl59

区 分:居館

現状:畑地、宅地、県道

築城期:室町期

築城者:磯崎氏

遺 構:堀痕(水路)、石垣・石材

 高:90m  比高差:0m 

目標地:磯崎神社 

駐車場:磯崎神社 

訪城日:2015.10.4

県道2号線のバイパスの南側の畑地が残る。

石材石垣微高地

県道2号線のバイパスの北側は集落・畑地。

社か?石仏か?

お城の概要

磯山城・磯碕神社の北、県道2号線のバイパスで分断された比定地。

磯村に「小字大小屋」地名が残る。明治期に地籍図には微高地と思われる畑地が描かれいる。

 現状は、県道2号線のバイパスの南側の畑地が残る、北側は集落・畑地。

米原市磯2484

磯崎神社

 伊吹の荒ぶる神の毒気に当たった日本武尊が、醒井の居醒の清水で正気を取り戻し、都へ帰る途中に千々の松原にて崩御され、ここ磯山に葬られたと伝えられています。

 崩御された日本武尊は白鳥になって飛び立ったとも伝わっています。 日本武尊を厚く守護神として祭るため、この神社が建立されました。毎年5月3日の例祭では「磯武者行列」がおこなわれ、日本武尊にあやかって男児は武者姿、女児は稚児姿で巡行します。

歴 史

『江州佐々木南北諸士帳』に 「坂田郡 磯 宮士 磯崎金七」 とあり

『淡海木簡攫』には、「往古磯崎金七ト云武士住居ス、邸宅跡猶在ス、後裔伊賀国上野ノ家士ノアリト云」

信長公記 三巻 志賀の陣  志賀御陣の事

信長公は大雪の中を行軍して16日に佐和山山麓の磯の郷(現滋賀県米原町)へ宿陣し、翌12月17日久方ぶりに岐阜へ帰陣した。

『近江百人一首』に、和歌の全文は「さざれなみ 磯越路(いそこしぢ)なる 能登瀬川(のとせがは) 音のさやけさ たぎつ瀬(そ)ごとに」で、歌の意味は「さざ波が磯を越すといふ、その越すではないが、越(こし)の国へ通う路にある能登瀬川の音のさやかなことよ、はげしく流れる川の瀬ごとに。」であると記されています。また同資料には、作者は「波多小足」で、略歴は「万葉集第三期の歌人。続日本紀に見える足人・広足・百足らと同族かという説があり、また武内宿禰の子孫かという説もある。万葉集にはこの一首のみが載っている。」とあります。収録されている歌集は「万葉集 巻第三」と記されています。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』『江州佐々木南北諸氏帳』『淡海国木間攫』『信長公記』ウィキペディア

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淀城の内高嶋の城

2015年10月08日 | 平城

淀城の川べり石垣を初確認 90m、内高嶋の城壁か

京都新聞2015.10.8

桂川べりで見つかった淀城「内高嶋」の城壁に使ったとみられる石垣。約90メートルにわたって確認された(京都市伏見区淀)

 江戸時代に現在の京都市伏見区淀に築城された「淀城」の曲輪(くるわ)「内高嶋(うちたかしま)」の遺構とみられる石垣約90メートルが、桂川べりで7日までに見つかった。川に面した城壁に淀城のシンボルの大きな「水車」を擁した石垣で、城内にあった「池」の跡も古い絵図通りに確認された。水に浮かぶ優雅な城として名高い淀城で川べりの石垣が確認されるのは初めてで、城の全体像を明らかにする新史料として注目される。

■台風11号で露出、調査

 同区淀下津町の桂川河畔で見つかった。台風11号の影響で石垣が露出したのが調査のきっかけとなった。調査した京都市によると、川に面した淀城の状況を表す絵図が示すように、川べりに城の南西部の曲輪「内高嶋」とみられる石垣が約90メートルにわたって積まれていた。度重なる洪水のためか修復の跡も見られた。石は使いやすく加工され、石質から宇治方面から運んだと考えられる。

 さらに内高嶋の曲輪内に、淀城の古い絵図で描かれていた逆L字型の池と似た池の跡が出てきた。絵図と照合すると、淀城に2カ所あったうちの西部分の「水車」は調査地のすぐ上流にあったことが推定でき、場所がほぼ確定できた。池の用途は分からないが、水車でくみ上げた水をためたとも推察できる。

 京都産業大の鈴木久男教授(考古学)は「河川敷でありながら石垣がよく残っていた。調査から川を利用して水べりに面していた淀城の全容がイメージできる。さらに現存する淀城中心部の石垣との高低差や深さの調査を進めることが必要だ。水車の位置や仕組みの解明にも期待したい」と話している。

 調査はすでに終了した。

 <淀城>伏見城廃城に伴い、徳川秀忠の命で松平定綱が築城し、1625年に完成。その後、永井氏などが入り、幕末まで稲葉氏の居城となった。城壁に2カ所付いていた大型の水車は淀川を行き交う船からの眺めが有名で絵画にもよく描かれている。豊臣秀吉が改築した淀君ゆかりの古い淀城は、現在の淀城跡公園北側にある納所の妙教寺付近にあったと推定される。

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淀城跡の石垣発見

2015年10月08日 | 平城

水車?用途不明の石組みも 淀城跡の石垣発見

 京都市伏見区淀の桂川河畔での発掘調査で7日までに見つかった淀城跡とみられる遺構では、石垣とともに曲輪(くるわ)の一部「内高嶋(うちたかしま)」の状況が明らかになった。古地図と同様の形をした池の跡からは当時の絵図の正確さが証明された。内部で確認された石組みはさまざまな用途を想像させ、城郭ファンの心をくすぐる。

 淀藩士が描いた「山州淀御府内之図」(稲葉神社崇敬会蔵)の淀城の絵図では、天守の南西側の川べりに内高嶋がある。その中に描かれた逆L字型の池の形が今回出土した池の跡と一致した。絵図と照合すると、調査地のやや上流の川べりに水車があったと推定でき、周辺では水車小屋の遺構が出ることも考えられる。「川の中にある石垣を調査してみるのも面白い」(京都市埋蔵文化財研究所)と今後の調査への期待は高まる。

 内高嶋内部では用途不明の石組みや地下排水溝の跡が見つかった。水車でくみ上げた水をためたり、汚れた水を川に流したりしたとも推定できる。水害が多い川べりのため、建物跡は確認できなかったが、瓦が出土していることから建物があった可能性は高い。

 調査した市文化財保護課の鈴木久史さんは「内高嶋の確認で、復元の資料となる絵図の信憑(しんぴょう)性や淀城が描かれた数種類の絵図がそれぞれどんな視点で描かれたのかを検討できる。また、淀城の造営で河川側の景観をどのように意識して整備したのかが分かり、淀城全域の復元が可能となる」と話している。

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若宮城(若宮氏館) 近江国(近江町)

2015年10月08日 | 居館

石版碑(若宮公園内)

お城のデータ

所在地:米原市(旧:坂田郡近江町)飯 map:http://yahoo.jp/murS2g

区 分:居館(平城)

築城期:鎌倉期~

築城者:若宮氏

現 状:若宮公園・宅地

遺 構:説明石盤、説明板

 高:90m  比高差:0m 

目標地:徳善寺・八幡神社 

駐車場:若宮公園

訪城日:2015.10.4

石版碑(若宮公園内)

若宮氏顕著碑(若宮公園内)

(若宮公園内)山内一豊の妻「千代」 <見性院>

山内一豊の妻の千代は若宮喜助友興の子として弘治三年(1557年)にここで生まれと言う説があります。一説には郡上八幡の遠藤氏の子という説もあります。永禄九年(1566年)に父友興が戦死し、叔母の夫の不破氏に養われたが、長じて飯村に戻りましたが、隣村の宇賀野村の長野家に身を寄せていた山内一豊母子と出合い、一豊の妻になったされます。夫の出世を助け、内助の功を発揮し、妻の鑑とされました。晩年は京都に住み元和三年(1617年)に没しました。墓は妙心寺大通寺にあります。 <現地案内板より>

(若宮公園内) 当地は、若宮氏館跡の西北部に臨接し、若宮氏の歓進した八幡神社の元宮があった所とされている。応永7年(1400年)頃の創建で、祭神は応神天皇である。

長く武をもって知られた若宮氏は、出陣の度に武運の長久をこの宮に祈願し、日常も崇敬の念を怠らなかった。
永禄年間(1558年から1570年)、社地が狭くなったため、若宮氏はこの地より約百メートル西方に社領を寄進し、そこに社殿を造営して移転した。以来約四百年間、現在の八幡神社が存続してきた。
この元宮跡を「どじょ野」と呼び、聖地として不浄の物を近づけぬよう村民は心がけてきた。
なお、当地の言い伝えによると、この地内に不遠慮に入るとにわかに腹痛が起こるとか、また、地中に黄金の鶏が埋まっていて、元旦には向かって声高らかに時をつくったとか言われている。 

 滋賀県中世城郭分布調査滋賀県中世城郭分布調査

お城の概要

飯村の西部に若宮氏の居館若宮城がある。若宮公園として整備され、周辺の水路は堀跡とも伝わりますが、明瞭な遺構はありません。

北側は上屋敷、南側は下屋敷、堀(水路)は

2006年大河ドラマは功名が辻で、千代の出生地説のある。千代さんの出生地は『郡上八幡』とも言われています。

目標地:徳善寺の西(JR北陸線のガードを潜る直ぐ

歴 史

 山内一豊の妻「千代」は、近江浅井家の家臣「若宮喜助友興」の娘として生まれました。
大正3年に刊行された『坂田郡志』によると、若宮左馬助の娘「お松」が一豊に嫁いで「千代」と改名された。

平成4年に近江町飯の牛尾田家において、土佐よりの書状(「牛尾田文書」)が発見され、「若宮お松」の嫁ぎ先が「五藤内蔵助」であると判り、「お松」と「千代」が別人であると判明しました。

しかしながら、千代の出自が近江の若宮家であることは依然かわるものではありません。
また現在の飯村には、「若宮外記仲間」といって19軒(昔は22軒)の仲間組織があり、牛尾田・伊部・吉田・宮崎・日比・吉用の各家が、若宮家遺領の田6反1畝・畑2反4畝・宅地3反7畝・山林1反を共同管理し、その年貢によって若宮家代々の法要が営まれています。

 幼くして両親を亡くした千代は、隣の宇賀野という集落に裁縫と行儀見習いに行っていた。
その人物こそが、一豊の母・法秀院だった。法秀尼は戦で夫を亡くし、織田信長に追われて、宇賀野の長野家に身を寄せていた。利発な千代を見初めた法秀院が、息子(一豊)の妻に推したと言われている。

 
山内一豊母『法秀院』の墓

宇賀野に山内一豊の母は、夫盛豊が亡くなった後、法秀院として出家し、次男・一豊らを連れて居を転々としたのち、永禄末年(1569)頃、4人の子どもを連れて宇賀野の長野家に身を寄せたと考えられています。法秀院はつつましく穏やかな性格で、村の子ども達から慕われていたと伝えられています。近所の子どもに裁縫や行儀見習いを教えていましたが、その中に後に一豊の妻となる千代の姿がありました。
一豊が長浜城主となった際、一時この地を離れたこともありましたが、生活の基盤は親しい知人が多い宇賀野におかれていたと言われています。その後生涯をこの地で過ごしたとされます。
なお、千代が名馬を買わせ一豊を出世させた逸話は有名ですが、金十両を持たせたのはこの母とも言われています

一豊と千代像(坂田駅前)。地元の彫刻家作品。

 NHKの大河ドラマ「巧妙が辻」(司馬遼太郎さん原作)の放送に際して作られたものだという。
一豊と千代が二人並んでいる像は、全国でもここだけだという話だった。

坂田駅前

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板・ウィキペディア

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飯村城(嶋氏館) 近江国(近江町)

2015年10月08日 | 居館

お城のデータ

別 称:嶋氏館

所在地:米原市(旧坂田郡)近江町飯 map:http://yahoo.jp/wWUCef

区 分:平城

現 状:春日神社・飯集落

築城期:戦国期

築城者:嶋若狭守秀安

城 主:嶋若狭守秀安

遺 構:石盤・堀跡

標 高:90m    比高差:0m

城 域:集落

目標地:徳善寺

駐車場:若宮公園に駐車(集落内は、道路も狭い)

訪城日:2015.10.4

お城の概要

飯村集落の東部に位置した城で、京極氏の根本被官今井氏の家老として嶋氏がこの館に住した。

JRで分断された飯村集落の東部に位置し、周囲を水路の巡る。北側水路は明治中期まで”通船川”として荷物の運搬用水路として機能していた。

一方集落の東側は北国街道が通るが、街道を横切る天野川は、この地を”渡し場”として機能して嶋氏は”渡し番”も担っていた。

天野川の上流には、今井氏の居城「箕浦城」「能登瀬城」の要路要壕であった。

ここ(消防ポンプ庫)路地から、春日神社へ

集落内の水路

徳善寺http://yahoo.jp/7Tayjy

歴 史 

江州佐々木南北諸士帳に、坂田郡飯村 住 佐々木浅井隋兵堀一族 島若狭守成久、島角左衛門、島四朗左衛門、島忠左衛門、島七左衛門、宮崎左近の名が残る

 京極氏の被官で近江坂田郡飯村城主・嶋若狭守秀安(入道朴底)の孫秀親・秀季(二男秀淳の子)または一族の新六郎が左近ではないかとするもので、『関ヶ原軍記大成』などに見える「嶋左近は浪人してから近江国に下り、高宮の里のそばに庵を作ってこもっていた。石田三成は天正の末に近江国の水口を領地に賜り、そこに住んでいたが、同じ近江に住む左近を石田は無理に招き、賓客のようにして自分の所においた」という記述から、左近は同郷人である三成に親近感を抱き、その家臣となって活躍したとするもののようである。

画像は飯村の嶋氏館跡(現滋賀県坂田郡近江町飯 春日神社)にある説明板で、嶋左近は当地の出自であるとされている。

嶋氏『島記録』に詳しいが、昔から嶋仲間が四組(角左衛門、新六、仁左衛門、十郎右衛門)があり、遺領の土地や位牌を守り毎年法要を行っている。

『近江坂田郡志』(中巻)によると、嶋若狭守は田那部氏とともに京極氏の譜代家臣・今井氏の臣下にあってこれを支えてきたが、姉川の戦いの際に田那部氏が寝返って信長方に付いた。やがて浅井氏が滅びたため田那部氏の栄達に反して嶋氏は没落、老いた父母を飯村に残して一族は他国へ散っていったという。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板・ウィキペディア 

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