永源寺ダムの西に位置し”城山”の”西側の、”鶴尾山・山腹”に『相谷山城』は現存する。
お城のデータ
所在地:東近江市(旧神崎郡)永源寺町相谷 map:http://yahoo.jp/e84GeM
別 名:旧坂の頭城・鶴尾山城/小倉氏城
現 状:山林.山腹
区 分:山城・山麓館関所
遺 構:掻揚げ土塁・郭・掻揚げ城道・物見櫓台・武者隠し
築城期:織豊期
築城者:小倉左近将監良親
標 高:438m 比高差:190m
目標地:相谷バス停(標高:248m)・寶珠禅寺(標高:238m)
駐車場:相谷バス停・ゲットボール場駐車場
訪城日:2015.10.15
相谷バス停・ゲットボール場駐車場
相谷バス停(標高:248m)の待合の裏から入城した
山に入る直ぐに石仏
集められた石仏
山麓館跡(相谷関屋(関所)の館か)
相谷の「小辰家文書」鍋婦人記の項で「三河守殿末孫九居瀬村ニ城郭之支度…村年寄共ニ字卒塔波山ト申候、夫レハ名悪敷ク尖山(トガリヤマ)ト御附城郭被成候由、出城ハ相谷長谷出ノ上、鶴尾下ニ関屋ヲ立 云々」と記す。
西側の土塁東側の土塁と曲郭南側石列
城山・谷筋側の谷筋に石列だ!
砂防ダム
砂防ダムの西隅から、尾根筋まで直登(斜度60℃南へ北へと)した。
お城の概要
永源寺ダムの西に位置し”城山”の”西側山の山腹に『相谷城山城』は現存する。
国道421号線の相谷バス停(標高248m)の東側から、山に入った直ぐに石仏が集められいる。
山麓館跡が、西側土塁を伴う『関所の館』か・・・そのまま山道進むと巨石の石列20m(谷川沿いに) 、石を配置した庭園を伴う。砂防ダムまで進み、砂防ダムの西隅から、尾根筋まで直登(斜度60℃南へ北へと)した。
北尾根に出るとすぐ、東向きに”武者隠し”(出丸か)、西側は切り岸80℃位、南に進むと主郭へ。
主郭は、掻揚げ土塁・土取り跡も、そのままに山城というより詰め城・砦。
鶴翼の構えで、旧八風街道の抑えか。九居瀬城の出城の役割を担っていた。
尾根に出るとすぐ、東向きに”武者隠し”、西側は切り岸80℃位!
山腹の頂部(438m)
相谷城山城 ( あいたにしろやまじょう)・・・鶴翼の構えで
主郭頂部(登城記念にmy pole)テレビアンテナが、撤去されていた。掻揚げ土塁掻揚げ土塁主郭頂部から、西側・・・曲郭・低土塁が続く
西へ”城道”があった!・・・この道を下城したが”九十九曲り急勾配”であった
城道に倒木が井戸跡城道を振り返る目印水道タンクの裏から、城道
歴 史
小倉城は承暦年代(1077~1080)に清和源氏の後裔小倉景実が、背後に鈴鹿山脈を擁し、眼下に愛知川を望む天然の要害に築いたものである。
清和源氏の後裔である小倉氏は、南北朝期から室町期にかけて愛知川流域を支配したが、室町中期に3~4家に分家し、愛知川小椋庄を支配した小倉東家は高野城ならびに小倉城を居城とした。また、神埼郡御園庄(山上郡)を支配した小倉西家は山上城を本拠とした。
小倉西家の小倉右近太夫、山田城主・小倉三河守良秀が支城として築いたのが相谷万灯山城と考えられている。
その他小倉右近太夫らが築いた支城には、和南城、山田城、九居瀬城、八尾山城等がある。
『近江神崎郡志』大橋金造編、上巻・下巻には、相谷の小字鶴ケ岨(今は上村と言う)にあり、三ケ所に分れ、中央なるは東西10間・南北6間、東には東西10間・南北6間、東なるは7間・南北4間その周囲は頗る広い。小倉三河守良秀の子、左近将監良親が元亀の頃に築城したと云う。小倉三河守良秀の子、左近将監良親が元亀の頃に築城したと云う。
「淡海温古録」高野の条には、「羽柴武蔵守ト名付此高野ニ居館ヲ営ム、小倉三河守良秀、同左近大夫良ヲ後見トシ・・・」と記す。
高野の「上田家系図」(愛知郡志にも)には、「小倉実澄の四男、実高の弟として左近大夫賢治、神崎郡山上邑領主、同郡相谷村露尾山ニ小城構フ・・・」と記す。
相谷の「小辰家文書」には「三河守殿末孫九居瀬村ニ城郭之支度…略…出城ハ相谷、長谷出ノ上、鶴尾下ニ関屋ヲ立、其処ニ木造ヲ立チ・・・・」と記す。
「今掘日吉神社文書」75の「四本衆より、いか五連到来候祝着旨得其心…云々 良秀 花押」や、永禄3年の同文書143の「是も相谷関屋云々」などから、永禄初頭小倉三河守良秀の在城が確認できる。
「小辰家文書」鍋婦人記の項で「三河守殿末孫九居瀬村ニ城郭之支度…村年寄共ニ字卒塔波山ト申候、夫レハ名悪敷ク尖山(トガリヤマ)ト御附城郭被成候由、出城ハ相谷長谷出ノ上、鶴尾下ニ関屋ヲ立 云々」と記す。
この看板を左へ…城道
国道421号線へ
空き家もようだが(駐車可?)相谷城山城(遠景)
城道へは此処からが、お勧め、目標地”丸和油脂滋賀工場”西側
国道421号から城道丸和油脂滋賀工場相谷城山城(遠景)
旧八風街道(永源寺ダムで此処で10m上にバイパス国道421号線)
[++ 相谷 ++] (あいだに) 旧神崎郡永源寺村:山上村に属した村
以前は八風街道が中心を通っていたが永源寺ダム建設により、現在は松尾谷方面、永源寺ダムの奥手まで北側に続く川岸道路がある。街道は明治25年に八日市-山上間が明治28年に山上-相谷間、明治40~43年に相谷-佐目間が改修された。
愛知川に沿った相谷隧道を過ぎると道路幅は徐々に狭くなる。この辺りもバイパス工事中、永源寺バス車庫手前より山間部をショートカットし、愛知川を横断して現行の対岸を走るルートはある。 現在、付近には食堂や民宿が目立っている。
氏神の寺は宝珠寺。当時は相谷では農業用水は佐目子谷より引いていた。
旧八風街道
淵龍山 寶珠禅寺の茅葺の本堂
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』4(「旧蒲生・神崎郡の城 1986.3) 淡海の城、神崎郡志、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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