城郭探訪

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箕川館 近江国(永源寺・箕川)

2015年10月21日 | 居城


お城のデータ

所在地:東近江市箕川町  (旧神崎郡永源寺町箕川) map:http://yahoo.jp/l1Rla6この地図のURL

現 状:山林・社地+寺地:(永昌寺・八坂神社ほか)

遺 構::曲輪・土塁

区 分:居館(城館)

築城期:室町期

築城者:

目標地:箕川バス停

駐車場:路上駐車(八坂神社・永昌寺周辺)

訪城日: 2015.10.21

集落東丘陵部の削平地は遺構

 臨済宗永源寺末の永昌寺

 集落東寄に臨済宗永源寺末の永昌寺がある。

  石段を上りささやかな境内に進むと本堂前の前に宝篋印塔を中心に据えた苔むした庭ある(寺院の庭は、本堂の裏が多いが)。寺は元々西北方、谷を隔てた山裾の寺屋敷と呼ばれる場所にあった。が後に現在の場所に移され宝篋印塔も一緒に移建されたとされる。さらにその後の道路拡幅でも1mばかり移動していると。

 

南北朝期の他と多少異なる特徴を有する宝篋印塔(永昌寺)

箕川バス停

箕川集会所

 八坂神社八坂神社

右奥は永昌寺)

 室町初期の狛犬」

本殿拝殿 神社の裏は

お城の概要

 箕川には、南北朝期の他と多少異なる特徴を有する宝篋印塔(永昌寺)や、「牛頭扁額」を揚げ「室町初期の狛犬」を所蔵する。(箕川・八坂神社)もあり、愛知川上流最奥地にも拘わらず歴史の古さを残す。

 

歴 史

元は、大字箕川字川東、標高378mの御池川左岸に所在した。

蛭谷・帰雲庵の住僧や筒井神社の神主を務めていた大岩助左衛門の『大岩日記』は、

 蛭谷・君ケ畑の支配所役人が全国の木地師を訪ね歩き、金銭を徴収した記録である氏子駈帳・氏子狩帳の現存分を翻刻。さらに廻国先の現代地名を注記した。主要な木地師関係文書と「大岩助左衛門日記」(33代大岩助左衛門尉重綱が、1695(元禄8)年にまとめたものである)

 

「明応二年十月十日、川上村にて野良畑と一義に付、今日より取合しける。左衛門尉、大岩助殿、両家大将して同四月一六日、当四ケ村の定を書留て其時に大利を得る。箕川道善も手がらして、万惣公事を免じけろ。」記されている。

箕川館 近江国(永源寺・箕川)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、城郭分布調査4、遺跡ウォーカーβ(滋賀県の遺跡)

     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


杠葉尾城 近江国(永源寺・杠葉尾)

2015年10月21日 | 丘陵城
六角氏一門である佐々木定頼の弟で右近大夫・佐々木高実氏邸・杠葉尾(ゆずりお)城
 銚子ケ口岳登山口(標高340m)、駐車3台可
 
お城のデータ

所在地:東近江市永源寺杠葉尾町 (旧神崎郡永源寺町大字杠葉尾) map:http://yahoo.jp/3kngOHこの地図のURL

区 分:丘陵城(邸址)

現 状:山林 

築城期:室町期

築城者:佐々木高実(梅戸高実)

遺 構:曲郭、土塁、石積み、櫓台

標 高:360m   比高差:20m  

目標地:銚子ケ口岳登山口(標高340m)

駐車場:銚子ケ口岳登山口(標高340m)、駐車3台可

訪城日:2015.10.21
 
お城の概要

杠葉尾(ゆずりお)は、石榑峠、三重県へと続く八風街道の近江側最後の村である。

 八風街道は保内商人や山越え商人が街道と利用していた。(今掘日吉神社文書)織田信長も峠を越え、伊勢から京へ。

 杠葉尾(ゆずりお)城は、永源寺町杠葉尾集落(標高330m)の南側の舌状張出した丘陵中腹にあった。(国道421号線から杠葉尾の銚子ケ口岳登山口)

旧八風街道の『近江の城館の最東端」。近江の抑えに、六角氏一門である佐々木(梅戸)高実氏邸跡(銚子ケ口岳登山道)沿いに、曲郭、土塁、石積み、が残る。背後尾根から2mの掻揚げ土塁で遮断し、八風街道の監視の役割を担っていた。

新設された国号421号線で分断されたが、集落の南側の丘の頂部に、平削地(出丸・物見櫓)が比高差10mを図る。(茅葺屋根の西側・・・杉・竹・雑草)

 梅戸氏(梅戸城・・・いなべ市大安)は伊勢国における八風街道を抑えており、六角氏一門である佐々木高実氏【永源寺町杠葉尾(ゆずりお)住】を養子にすることによって戦略上でも重要視していたと思われる。

 
歴 史
 
「神崎郡志稿」(下巻)には、
梅戸氏邸 梅戸高実の邸址といて、杠葉尾(ゆずりお)に潤き一区があると記す。
 
梅戸城 伊勢国(大安町)

梅戸氏(うめどし)は、伊勢国の国人で北勢四十八家の内の一つ。田光隼則の後裔で、戦国時代に六角高頼の子高実が入嗣。永禄11年(1568年)、織田信長の北伊勢侵攻の時に攻め滅ぼされた。

梅戸高実は 佐々木定頼の弟で右近大夫と称し、伊勢の神戸家を継いだ」とある。詳細不明

 六角高頼
          ┃
    梅戸高実
          ┣━━━┳━━━┓
     高宗  実秀  高資 

梅戸 高実(うめど たかざね、 文亀2年(1502年)- 永禄4年(1561年))は、戦国時代の武将。六角高頼の子で梅戸氏に養子に入る。梅戸氏は伊勢国における八風街道を抑えており、六角氏一門である高実を養子にすることによって戦略上でも重要視していたと思われる。

後に梅戸城(現・三重県いなべ市大安町門前字天水。光蓮寺山公園として整備されている)を築城する。高実の死後は次男の実秀が家督を継いだが、1568年に織田信長に攻められて滅亡している。

 文献(角川日本地名大辞典)では、

 千種峠(根の平峠のこと?)などと共に、応仁文明の乱以降、警戒が厳重になったそうだ。盗賊などが出没する物騒な峠道でもあり、応仁2年(1468年)に尾張商人が八風峠を越えた時は、警固の武士数10名を率いて山上の宿に泊まったとのこと。また、連歌師宗長が桑名から近江へ越える折りにも、峠の旅宿で一夜を過ごしたと「宗長日記」にあるそうだ。大永6年(1526年)のことで、当時は「昔より馬・輿(こし)も通らぬという険しい八風峠」と言われたとのこと。ただ、険しいながらも峠に宿があったことに驚く。
 
<八風峠とし石榑峠>
 石榑峠の道が今でも八風街道と呼ばれるのは、やはり歴史的に八風峠の方が石榑峠より早くから通じていた道だったからであろう。ただ、その八風峠は江戸時代に入るとほとんど使われなかったようだ。一方、石榑峠は明治期まで、近江から伊勢参りをする近道として、また伊勢方面からは政所へと茶摘み女が越える道として使われたそうだ。旧永源寺町は政所茶の生産地として知られる。その延長として石榑峠に車道が通じ、遂には石榑トンネルが開通することとなったと言える。
 
 では何故、八風峠に代わって石榑峠が用いられるようになったのだろうか。一つは、標高かとも思った。八風峠は938m、石榑峠は689m(どちらも文献より)で、石榑峠の方がやや低い。近江から伊勢に通じるには、より南に位置する八風峠の方が近いが、全体的な道の容易さから、石榑峠のルートが選択されたのかと思ったのだ。

<八風峠>
 国道421号が八風街道と呼べるのは、この八風谷橋を渡った所までであろうか。
 
 以前は八風峠への分岐の角に、永源寺町教育委員会による「八風峠」と題した立札が立っていた(写真)。「八風の名は古く、伊勢風土記逸文、神武天皇東征神話に早くも八風の文字がある。」と始まる説明文は、最後に
「戦国時代を全盛とした峠道も、信長は安土城下に楽市を開いて山越商人を禁止、江戸幕府の関所徹底取締令などで八風越えは殆んど消滅したことは、慶安三年(1650)の黄和田文書が示しており、今も荒廃のままである。」と結んでいた。
上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます

八風峠の看板 (撮影 1992.10.21)・・・(画像は不鮮明です)

背後を遮断、掻揚げ土塁背後を遮断、掻揚げ土塁

曲郭は三段

曲郭から国道421号線へ

集落背後の平削地(茅葺屋根の背後)

リンドウの花

佐々木高実氏邸【杠葉尾(ゆずりお)城】 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、ウィキペディア(Wikipedia)』、遺跡ウォーカーβ

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


菅浦城(菅浦惣村) 近江国(西浅井・菅浦)

2015年10月21日 | 城郭寺院

菅浦城(菅浦惣村)のデータ

所在地:長浜市西浅井町菅浦(旧:西浅井郡西浅井町菅浦)

      map:http://yahoo.jp/-tYUvEこの地図のURL

時 代:鎌倉期~戦国期

領 主:領主円満院

訪城日:2014.8.26

菅浦城

 菅浦文書は、中世に成立した自治権の強い村「惣村(そうそん)」の様子を記した現長浜市西浅井町菅浦の区有文書。主に鎌倉-戦国時代の1261点が重文に指定されている。

 菅浦の住民は、大浦庄の一部の領域を自領とすることで、村の領域空間を独立させようとしました。両村間の紛争の発端は永仁3年(1295)のこと。日指・諸河の田畑の所有権をめぐって大規模な紛争が始まりました。

 「菅浦所置文(ところおきぶみ)」(1346年)には、菅浦が惣村だったことを示す「そう(惣)」の字が初登場する。「浅井長政撰銭条目案(えりぜにじょうもくあん)」(1566年)は、銭の信用が低下する中、よほどの悪銭でない限りは使用するよう命じた文書で、戦国大名・浅井長政の名も見られる。

 このほか、菅浦の北に位置する大浦荘との間で土地の所有権争いがあったことが分かる文書や絵図など貴重な史料が残る。

要塞の役目を果たしたと伝わる「四足門」

「陸の孤島」「隠里」の異名をもつ菅浦。琵琶湖に突き出た葛篭尾崎半島の懐に抱かれた湖畔の集落です。山と湖に囲まれたたたずまいはどこか神秘的な雰囲気が漂います。この地には、奈良時代に帝位を追われた第47代・淳仁天皇が遠座されたと伝えられ、集落内にはゆかりの場所が多く残されています。住民の祖先は、平安時代以前の、天皇に納める食料を調達する「贄人(にえびと)」と呼ばれた小集団にたどり着きます。この地に住み着き、漁労と水運に従事した住民たちが、平安時代には「供御人(くごにん)」として自立したと伝えられています。中世には全国的にもいち早く「惣(そう)」といわれる自治的村落を形成し、住民自らによる自治が発達してきました。菅浦ではまた、早くから警察・軍事が行われ、要塞の役目を果たしたと伝わる「四足門」が集落の東西の入り口に残されており、往時を偲ばせています。

 「菅浦文書」には、隣の大浦との境界紛争への訴訟のための文書が多く見られます。菅浦はもともとは園城寺円満院領大浦庄に属する浦でした。

  菅浦は領主円満院と対立関係にあった比叡山延暦寺檀那院や竹生島などをたのみ、約150年にわたり争いました。永きにわたる紛争を治めるために活躍したのが、乙名清九郎です。彼は後に出家して道清と改名しましたが、菅浦の危機的状況を救った英雄として語り継がれています。

「菅浦文書(すがうらもんじょ)

 近江は全国に先駆けて「惣」が発達した地域で、ここには鎌倉時代から明治に至るまでの集落の様子を書き記した「菅浦文書」が残されています。この文書は、わが国の中世惣村の歴史を解明する上で重要な史料であることから、重要文化財書跡の指定を受け、現在は滋賀大学に保管されているほか、菅浦 郷土史料館に一部、写しが展示されています。
 住民には、供御人出身の者のほか、神社に仕えていた者や百姓など、様々な身分の者があり、貧富の差も存在したことは言うまでもありません。それにもかかわらず、すがうらではすべての構成員を供御人とすることにより、平等な構成員による惣共同体を作り出しました。

菅浦与大浦下庄境絵図

 菅浦が正式に独立した惣村として幕府に認定されるまでには、文安3年(1446)まで待たなければなりませんでしたが、この界相論をめぐる運動はまた、同時に自治的村落としての独立のための運動でもありました。

 湖岸の僻地で、名もない庶民が自立意識を保持し、自治を維持するために行った活動が「菅浦文書」の中に息づいています。脈々と受け継がれてきた生活経験は、時とともにその形を変えてきましたが、年中行事に、また錯綜した村の「取り決め」や「個人の人権」を守ることが、日常生活に何の抵抗もなく溶け込み、生かされている集落が菅浦なのです。住民自らの手による地域作りが求められる今日、その手がかりを菅浦の歴史の中に見ることができます。

四足門

ゆたかな緑に包まれた須賀神社は、この地に隠れ住んでおられたと伝えられる淳仁天皇を祀った物であり、もともとは保良神社と呼ばれたところです。明治42年(1909)に小林神社・赤崎神社を合祠し須賀神社と改称されました。
天皇自ら榧(かや)の木でご自身と皇后様の肖像を彫刻し「何処に寿を終わるも神霊必ずこの肖像に留め置く」と伝えられる地だけに、凛とした気高さの漂う湖岸の社です。
拝殿の裏には、淳仁天皇の舟型御陵が今でも残されており、水屋から素足で参拝する氏子たち。

竹生島(旧びわ町