城郭探訪

yamaziro

宮川陣屋(宮川氏館) 近江国(長浜)

2015年10月18日 | 陣屋

 

お城のデータ 

所在地:長浜市宮司町 maphttp://yahoo.jp/6VMuJJ

別 名:宮川氏館

区 分:陣屋

遺 構:城跡碑

築城期:江戸期・・・・・元禄11年(1698)

初城主:堀田正休

訪城日:2015.6.27、2015.10.17

お城の概要

日枝神社の前に宮川陣屋跡を示す石碑が建てられている現在は、陣屋跡の碑があるのみである(『名城をゆく(小学館)』)。
宮川陣屋は宮川氏館跡に建てられた。石碑の横には十一川が流れ、宮川氏の館が十一川を利用した形で建てられていたことが窺える。
 なお、一帯は蔵などの古い家並みが残る。

番場堀

お城の歴史

 宮川陣屋は元禄11年(1698)堀田正休が宮川藩の政庁として設けたもので、長浜平野を南北に走る加田街道と東西に走る長浜街道の交差する交通の要所に位置している。元禄十一年(1698)、上野国吉井藩から堀田正休が1万石で入封し、陣屋を構えた。

  宮川藩は寛延元年(1748)には3000石を加増され、その領地は坂田郡16か村のほか、他郡21か村に及んだ。(『名城をゆく(小学館)』)。

城主と見られる宮川氏は、『総持寺文書』中の永享5年(1433)屋敷寄進状に宮河光道等の名が見られるのが初見である。更に、総持寺の文書は、同氏が山門領坂田荘の下司・公公であったことも語ってくれる。

 

その城地として伝えるところはないが、宮司町(宮司は、明治7年宮川と下司が合併して成立)小字古殿が最もふさわしいだろう。この字内には、垣見氏館も含まれるが、元禄11年(1698)堀田正休が宮川藩の政庁として設けた宮川陣屋の跡地も存在する。

 

 この陣屋は宮川氏が田中吉政に従い筑後柳川へ転出した屋敷跡を利用して設けられたと考えることもできるでしょう。

当時の南東端で南川が十一川に合流し、南西端で十一側が分かれており、長浜平野を南北に走る加田街道と東西に走る長浜街道の交差する交通の要所に位置しているが、明治期の地籍図によれば、この二つの道は同字の東端を南北に重複していた事がわかり、宮司町内の元宮川村に属する当字には垣見氏屋敷が知られている。

東隣には元宮川山王と称した楞厳院荘の総社日枝神社があり、地名を姓にもつ宮川氏の屋敷が有ったものと思われる。

 宮川氏には永享5年総持寺文書の宮川光道や同11年長浜八幡宮塔供養の宮川又次郎らがいて、上坂に分家した宮川源六は上坂内蔵介に仕えている。

また、古殿の東半分は近世宮川藩の陣屋であったところで、十一川を隔てて満立寺がある。


元禄十一年(1698)、上野国吉井藩から堀田正休が1万石で入封し、陣屋を構えた。

宮川藩は寛延元年(1748)には3000石を加増され、その領地は坂田郡16か村のほか、他郡21か村に及んだ。現在は、陣屋跡の碑があるのみである(『名城をゆく(小学館)』)。 明治4年の廃藩置県により宮川藩は廃された。なお、同町小字古殿内には垣見氏屋敷があったとされている。

 宮川藩は元禄11年(1698年)に堀田正休が、上野吉井から近江国甲賀、坂田、蒲生、愛知4郡内に領地を移され、坂田郡宮川に陣屋を構えて成立した藩である。
 宮川藩堀田氏は堀田の宗家にあたり、先々代正盛は家光の寵臣として下総佐倉11万石にまで登りつめたが家光に殉死し、二代正信は無断帰国をして除封された。
正信は狂疾とされ、堀田家は正盛の忠義によって家名存続が認められ、正休に上野国吉井でで1万石が与えられ、さらに宮川に移された。
三代正陳は、延享2年(1745年)7月に若年寄、寛延元年(1748年)10月に西の丸若年寄となって近江国野洲郡、滋賀郡内で3千石を加増された。
最後の藩主正養は出羽亀田藩主岩城隆喜の子で堀田家に養子に入り、戊辰戦争では他の近江の小藩同様彦根藩の影響を強く受けて、新政府軍側に立った。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

            本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


宇賀野・長野家 近江国(近江)

2015年10月18日 | 平城

お城のデータ

住所:米原市(旧:坂田郡近江町)宇賀野 map:http://yahoo.jp/QznBDo

区 分:平城

現 状:宅地

遺 構:碑・(説明板)

築城期:室町期

築城者:長野家

目標地:宇賀野会館

駐車場:宇賀野会館

訪問日:2015.10.3

お城の概要

宇賀野氏館は北陸本線沿いの宇賀野会館一帯にあったとされます。会館の西側の路地を北に進むと長野家がありました。(数年前に取り壊されようです)

さらに長野家から北西へ600mほどのところに山内一豊の母である法秀院の墓がある。

  

取り壊された長野家

お城の歴史

長野家は在原業平の後裔とされ、御所や公卿に関連する職務を行っており、武家が干渉することもないとの配慮からであるという。

長野家は、永禄二年(1559年)に岩倉織田家が織田信長に攻められ落城し、岩倉織田家の家老であった山内盛豊も討死したため、幼い山内一豊と母は流浪し、知人の紹介で永禄三年(1560年)に宇賀野長野家に匿われました。法秀院は、この後、死ぬまで宇賀野に住したと伝えられます。

 天正13年(1585年)閏8月21日、秀吉は、山内一豊に湖北において2万石を与え、長浜の城主とした。秀吉、柴田勝豊についで3代目の長浜城主である。この後、5年間領国政治を行う。
 この長浜城主時代に、一豊と見性院の夫婦に悲劇が襲う。天正13年11月29日、長浜を大地震が襲い、二人の子供である与祢姫が、御殿の棟木が落下した下敷きとなり、乳母とともに息絶えてしまった。この年6歳であった。
 一方、地震から数年後、見性院は城下で男子の捨て子を拾い、養育した。後に、山内家の菩提寺である妙心寺大通院の湘南和尚となる

坂田駅前

宇賀野と法秀院

 戦乱が果てしなく続く尾張の岩倉城は、織田信長に攻められ永禄2年(1559年)に落城、岩倉城の家老であった一豊の父盛豊は城と運命を共にし、一豊と母や弟妹は夜陰の中、城から脱出、家臣や縁故親戚にもかくまわれていたが、信長の詮索が厳しく、逃避、流浪の上、知人の紹介で永禄3年(1560年)宇賀野の長野家に落ち着かれた。
 一豊の母は、夫盛豊が戦死したのち出家し法秀院と称したが、資料が乏しく実名等は定かでない。
 法秀尼は長野家の屋敷の一隅でひたすら息子の武運を念じ、慎み深く質素な生活を送りながら、近在の子女に針の業(裁縫)や行儀作法を教えていました。

 一説によると、この習子の中に、後に一豊の妻となった千代がいました。利発な彼女を見初めた法秀尼は、息子の嫁に推されたと伝えられています。悲運を背負い苦労の中にも地域の人達の温情に守られ、二十数年の歳月が経ち、念願であった息子一豊が長浜城主に栄達の朗報が届き、早々法秀尼へ迎えの使者が来ましたが、謙虚な人で老体が息子の活躍の邪魔になってはと、また長年住み慣れ恩義を受けた宇賀野を去り難く、再三の迎えにも応じず、その翌年天正14年(1586年)7月17日、病にてこの世を去りました。

戦乱の中の遍歴

 一豊は、天文14年(1545年)7月、丹馬守盛豊の三男として尾張国で生まれました。このとき、信長12歳、秀吉10歳、家康3歳という関係になります。一豊は、幼名を「辰之助」と言い、長じて「伊右衛門」と名乗りました。
 多くの戦国武将がたどったように、尾張国岩倉・苅安賀・美濃国松倉・牧村と遍歴し、永禄3年(1560年)には、近江国勢多城主の山岡景隆の近習に仕えたといわれています。
 一豊母子が、近江国宇賀野の長野家に身を寄せていたのは、山岡景隆に仕えていたとされ、一豊は少年期から青年期にかけて、宇賀野に居住したことになります。また、一豊の母は、この地で死亡したとされ、宇賀野墓戸に墓所があり、長野家に「法秀院縁月妙因大姉」と記された軸が残されています。現在の長野家には、一豊に縁のある品として、鏡、くつわ、桝などと共に、貴重な文献資料(「長野家文書」)が残されています。
「長野家文書」には、土佐の山内家が、一豊の母「法秀院」の墓を発見するに至る経緯が記されおり、山内一豊の研究上、極めて貴重な資料とされています。(現在、長浜歴史博物館に保管されています。)
一豊は、やがて「内助の功」の誉れ高い「千代」をめとりますが、少年期を母と共に、この地で過ごし終えたことは、大きな転機となったと思えます。なお、千代が名馬を買わせ一豊を出世させた逸話は有名ですが、金十両を持たせたのはこの母とも言われています。

 参考資料:現地説明板・ウィキペディア

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!