城郭探訪

yamaziro

梓ノ関(あずさ)/石田館 近江国(山東)

2015年10月13日 | 関所

 中仙道碑(左)が、右は江戸後期大和郡山領、柏原宿・左は東山道横河駅跡、梓とあります。
大和郡山の飛び領だったんですね。金魚すくい大会や桜見物に行った大和郡山市、柳沢吉保が治めたこともあるという。
向かいには、黒谷遺跡とか中仙道道標。

旧道と新道が合流するとまもなくこの地蔵堂がある。

中仙道(東山道)沿いのお堂の中にも、ぎっしりと道祖神が詰まっています。
国道21号線と名神高速と並行する旧道沿いの梓は、古くは東山道の横河駅があった集落。

お城のデータ

所在地:米原市梓河内 (旧坂田郡山東町大字梓河内) map:http://yahoo.jp/nBdYD3

区 分 :関所

築城期:江戸期

築城者:不 明

関 守:石田氏

遺 構 :土塁・石碑

訪城日:2015.10.12

中山道沿いの土塁

お城の概要

大字梓にあるためこの名が付けられたものと思われるが、壬申の乱の舞台となった”息長横河”の地は、米原町丹生川附近と伝う。文献等に明確に登場するものはない。 ただ、明らかな土塁遺構が見られることや、梓川の上流に石田館の比定地がある。

関守石田氏の館跡(http://yahoo.jp/GHU7OZ)がある。

大字梓は中山道と東山道合流地点で、中山道を挟む格好で土塁が築かれているが、その構造や規模から古代のみならず戦国時代にも使用されていた。

 中山道

推定横川の馬屋跡(よかわのうまやあと)

梓川を渡り梓河内集落に入ると、国道・梓川に挟まれた道を進みます。
右に「推定横川の駅家(うまや)跡」説明板があります。
横川駅の位置は、醒井と梓河内の二説あり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」「馬屋ノ谷口」や略称とされる。                                        「小川」の地名があることから、古代東山道の駅家跡と推定されると記されています。

古代律令国家は畿内から全国に、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道と30里(約16km)ごとに駅屋を設けました。

近江の東山道には勢多(大津市)、篠原(野洲市)、清水(東近江市清水鼻)、鳥籠(とこ・彦根市鳥居本)と横川(米原市梓河内)に駅屋が置かれました。

米原市内にあった横川駅の位置は、醒ヶ井と梓河内の二説があり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」「馬屋ノ谷口」や、横川の略称とされる「小川(こかわ)」などの地名があることから、古代東山道の横川の駅家跡に推定されています。

古代近江の交通路 中山道

歴 史

梓ノ関のある梓地区は、南北を峻険な山に挟まれ、北側を天野川の支流が流れる東山道の急所といえます。

現在、規模としては大きい土塁の遺構を中仙道の沿いに認めることができます。その規模や形状から、上平寺や柏原に勢力を保っていた京極氏によって、戦国時代に入っても監視目的に利用されていた。

 石田一族ゆかりの京都妙心寺寿聖院に伝わる過去帳によれば、源平合戦の時に木曽義仲を討ち取った石田為久が京極氏に被官し、河内の山上にある猪鼻城を預かり、その子孫が城の守備にあたっていたといいます。

 又、梓には京極氏が関を設けて関銭を徴収していたが、関の管理にも石田一族が関与していたと言われているのです

  その子孫で三成の父正継の曽祖父が室町時代に石田村へ転出したというのだ。 三成の先祖の地も諸説あるようですが、ここ河内が一番有望なようです。

梓ノ関から東に300mほど行くと、小川ノ関の比定地があります。こちらは発掘により、いくつかの建造物の痕跡が見つかっています。ただ、小川ノ関のほうは梓に比べて要害性に乏しいことから、こちらの方は律令時代の横河駅が置かれていたか、あるいは封鎖線が梓で官庁が小川と分けられていた。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3) 淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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西山城(城山城) 近江国(山東)

2015年10月13日 | 平山城

山上『城山城址』碑

西山城(城山城) 西山 

お城のデータ

別 称:城山城、源氏山遺構

所在地:米原市(旧:坂田郡山東町)西山 maphttp://yahoo.jp/4ZDciX

区 分:平山城 

標 高:221m 比高差:70m 

現 状:山林・宅地・山頂(城山城) 

築城期:室町期

築城者:大原氏

遺 構:土塁・廓、城址碑 、堀(現用水路)

目標地:源氏山・長恩寺・八幡神社、西山会館

駐車場:西山会館の駐車場に

訪城日:2015.10.12

 米原市(旧山東町)西山八幡神社。

小さな神社ですが石段の両脇に杉の大木が17本並んで、樹齢400年超、幹回り5m超。豊臣秀吉が長浜城主の頃から武神であったこの八幡神社を崇敬していて、後大阪城に­移り安産祈願して居たところ無事秀頼が誕生したお礼にと薩摩より杉の苗木を取り寄せて­植えたと伝えられています。

八幡神社より登山道が整備

頂部の『城山城址』・・公園化され『城石碑』のみ・・・物見櫓址か、

10m×10m平削地に「源氏山ふれあいの里」の吾妻家が立つ。

山頂(城山城址)からは北国脇往還道・東山道共に江濃境目を見張ることが出来る。

お城の概要

西山集落は、城山城(西山城)の城下町か、

源氏山の山麓にある八幡神社に秀吉が植えさせたという杉並木は見事である。

西山城は別称源氏山と呼ばれ、佐々木信綱により息子重綱に分与された大原荘の最南端に位置する

山頂(城山城址)からは北国脇往還道・東山道共に江濃境目を見張ることが出来、南東中腹には20m×10mの舌状郭(源氏山公園)が付加されている。舌状郭の南面には竪堀状の遺構が見られる。

登山道の整備工事を行っている最中で、山肌の殆どが切削・加工工事されてしまい往時の遺構は殆ど残っていない。

宇多源氏の一派近江源氏佐々木氏流。源氏山と呼ばれる由来は、佐々木源氏(佐々木信綱により息子重綱大原)

 

集落内は、

 

 

 

歴 史

 大原氏は、宇多源氏の一派近江源氏佐々木氏流。

佐々木信綱の庶長子大原重綱を祖とする。近江国坂田郡大原庄より発祥。 

  鎌倉時代には佐々木宗家を継承した弟の佐々木(六角)泰綱と領地争いをした記録が残る

佐々木氏の長男系という血筋の良さから格式は高く、室町時代には足利将軍の奉公衆になっている。 

 戦国時代の大原政重を最後に血統が絶え、同じ佐々木一族の近江守護六角氏から迎えた養子高保が将軍足利義晴・義輝父子に仕えた。さらに六角氏から養子が入った賢永(高賢)が慶長6年(1601年)に死ぬと大原氏は断絶した

 西山会館の駐車場に

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

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