中仙道碑(左)が、右は江戸後期大和郡山領、柏原宿・左は東山道横河駅跡、梓とあります。
大和郡山の飛び領だったんですね。金魚すくい大会や桜見物に行った大和郡山市、柳沢吉保が治めたこともあるという。
向かいには、黒谷遺跡とか中仙道道標。
旧道と新道が合流するとまもなくこの地蔵堂がある。
中仙道(東山道)沿いのお堂の中にも、ぎっしりと道祖神が詰まっています。
国道21号線と名神高速と並行する旧道沿いの梓は、古くは東山道の横河駅があった集落。
お城のデータ
所在地:米原市梓河内 (旧坂田郡山東町大字梓河内) map:http://yahoo.jp/nBdYD3
区 分 :関所
築城期:江戸期
築城者:不 明
関 守:石田氏
遺 構 :土塁・石碑
訪城日:2015.10.12
中山道沿いの土塁
お城の概要
大字梓にあるためこの名が付けられたものと思われるが、壬申の乱の舞台となった”息長横河”の地は、米原町丹生川附近と伝う。文献等に明確に登場するものはない。 ただ、明らかな土塁遺構が見られることや、梓川の上流に石田館の比定地がある。
関守石田氏の館跡(http://yahoo.jp/GHU7OZ)がある。
大字梓は中山道と東山道合流地点で、中山道を挟む格好で土塁が築かれているが、その構造や規模から古代のみならず戦国時代にも使用されていた。
中山道
推定横川の馬屋跡(よかわのうまやあと)
梓川を渡り梓河内集落に入ると、国道・梓川に挟まれた道を進みます。
右に「推定横川の駅家(うまや)跡」説明板があります。
横川駅の位置は、醒井と梓河内の二説あり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」「馬屋ノ谷口」や略称とされる。 「小川」の地名があることから、古代東山道の駅家跡と推定されると記されています。
古代律令国家は畿内から全国に、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道と30里(約16km)ごとに駅屋を設けました。
近江の東山道には勢多(大津市)、篠原(野洲市)、清水(東近江市清水鼻)、鳥籠(とこ・彦根市鳥居本)と横川(米原市梓河内)に駅屋が置かれました。
米原市内にあった横川駅の位置は、醒ヶ井と梓河内の二説があり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」「馬屋ノ谷口」や、横川の略称とされる「小川(こかわ)」などの地名があることから、古代東山道の横川の駅家跡に推定されています。
古代近江の交通路 中山道
歴 史
梓ノ関のある梓地区は、南北を峻険な山に挟まれ、北側を天野川の支流が流れる東山道の急所といえます。
現在、規模としては大きい土塁の遺構を中仙道の沿いに認めることができます。その規模や形状から、上平寺や柏原に勢力を保っていた京極氏によって、戦国時代に入っても監視目的に利用されていた。
石田一族ゆかりの京都妙心寺寿聖院に伝わる過去帳によれば、源平合戦の時に木曽義仲を討ち取った石田為久が京極氏に被官し、河内の山上にある猪鼻城を預かり、その子孫が城の守備にあたっていたといいます。
その子孫で三成の父正継の曽祖父が室町時代に石田村へ転出したというのだ。 三成の先祖の地も諸説あるようですが、ここ河内が一番有望なようです。
梓ノ関から東に300mほど行くと、小川ノ関の比定地があります。こちらは発掘により、いくつかの建造物の痕跡が見つかっています。ただ、小川ノ関のほうは梓に比べて要害性に乏しいことから、こちらの方は律令時代の横河駅が置かれていたか、あるいは封鎖線が梓で官庁が小川と分けられていた。
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3) 淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!