城郭探訪

yamaziro

坂の頭関所 近江国(永源寺・相谷)

2015年10月17日 | 関所

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡)永源寺町相谷 map:http://yahoo.jp/BhtW11

現 状:山林・山麓 

区 分:山麓館(関所)

遺 構:土塁・郭・石列

築城期:室町期

築城者:小倉?小辰氏?

標 高:250m 比高差:10m

目標地:相谷バス停(標高:248m)・寶珠禅寺(標高:238m)

駐車場:相谷バス停・ゲットボール場駐車場

訪城日:2015.10.15

相谷バス停・ゲットボール場駐車場

相谷バス停(標高:248m)の待合の裏から入城した

 山に入る直ぐに石仏(集められた石仏)

山麓館跡(相谷関屋(関所)の館か?)

お城の概要

相谷バス停(標高:248m)の待合の裏から入城するとすぐ東へ、10mも進むと国道421号との間の土塁が。

旧八風街道から、比高15mに位置し、国道421号で分断された、土塁で囲まれた曲郭が、

八風街道の警護をしていたか。小辰氏?小倉氏?

西側の土塁東側の土塁と曲郭南側石列

歴 史

相谷の「小辰家文書」鍋婦人記の項で「三河守殿末孫九居瀬村ニ城郭之支度…村年寄共ニ字卒塔波山ト申候、夫レハ名悪敷ク尖山(トガリヤマ)ト御附城郭被成候由、出城ハ相谷長谷出ノ上、鶴尾下ニ関屋ヲ立 云々」と記す。

 

<八風峠>
 国道421号が八風街道と呼べるのは、この八風谷橋を渡った所までであろうか。
 
 以前は八風峠への分岐の角に、永源寺町教育委員会による「八風峠」と題した立札が立っていた(写真)。
八風の名は古く、伊勢風土記逸文、神武天皇東征神話に早くも八風の文字がある。」と始まる説明文は、最後に「戦国時代を全盛とした峠道も、信長は安土城下に楽市を開いて山越商人を禁止、江戸幕府の関所徹底取締令などで八風越えは殆んど消滅したことは、慶安三年(1650)の黄和田文書が示しており、今も荒廃のままである。」と結んでいた。
上の画像をクリックすると拡大されます。
八風峠の看板・・・・ (撮影 1992.10.21)(画像は不鮮明です)

城山・谷筋側の谷筋に石列だ!

 砂防ダム

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』4(「旧蒲生・神崎郡の城 1986.3) 、神崎郡志、遺跡ウォーカー:滋賀県の遺跡

     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


土田遺跡(つちだいせき) 近江・(多賀)

2015年10月17日 | 遺蹟

所在地:多賀町大字多賀・土田

時 代:縄文時代晩期中葉~末、弥生後期、古墳時代前期,、墳時代後期、鎌倉時代

主要遺構:墓跡(縄文時代晩期中葉~末),集落跡(古墳時代後期)

見学日:2015.9.27

概要

1998年に町教委の実施した発掘調査によって縄文時代晩期の墓跡が発見された。墓には土器を棺材として用いる土器棺墓や木棺墓、土坑墓が混在した状況で検出された。
 土器棺墓は2個体の土器の口を合わせて埋めたものや、土器の口に別個体の土器を割って蓋にしたものなどがある。土器棺に使用された土器は篠原式~長原式にあてはまる。
 遺構面や土坑の中から磨石類・石鏃・剥片・石斧・石剣、土偶などが出土した。

概要:

1.『県営広域営農団地農道整備事業に伴う発掘調査報告書 木曽遺跡・土田遺跡・月ノ木遺跡』2002 滋賀県教育委員会・(財)滋賀県文化財保護協会 
2.「土田遺跡-第4次調査・第5次調査-」『多賀町埋蔵文化財発掘調査報告書第14集』2004 多賀町教育委員会

多賀そばの花が、満開でした!

参考資料:多賀町埋蔵文化財発掘調査報告書 、丸山竜平先生の現地説明

         本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!   


土田館  近江国(多賀)

2015年10月17日 | 平城

土田公民館横

 

専光寺

 

お城のデータ

所在地:犬上郡多賀町土田 map:http://yahoo.jp/gl05x3

現 状:集落・田畑

遺 構:曲輪

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:土田縫殿助

城 主:土田縫殿助

目標地:土田公民館・正福寺

駐車場:正福寺無料駐車城

訪城日:2015.9.27

 お城の概要

 土田館は、芹川南岸の土田集落の北方の一画にあったとされる。

 周辺は田園が広がるが、北側から集落を眺めると宅地は見事に微高地なのが判る。

集落北側の微高地は円形に張り出し、北端竹薮内には低土塁のような痕跡が残る。また集落内の路地は「くい違い」「どんつき」の城館特有の通路が雰囲気を留めている。

また、200m北は芹川、集落内は堀川(現在は用水路)、集落全体が微高地の【土塁と曲郭】城館、中央付近の食い違い路、往時が名残りが読みがえる。

堀川のはしの

集落中央付近の食い違い道路

 

集落の北部・・・北土田集落の中に【土塁と曲郭】残存

 歴 史

  「大洞弁天当国古城主名札」に、土田縫殿助の名がみえる

土田氏は近江国の出身で、

 宇多源氏の流れを汲む名門・佐々木六角氏の旗本を務め、土田氏(近江佐々木氏庶流建部氏)は代々「近江守」を称していた。

  4代目の近江守秀定の頃、文明年間(1469年~1486年)に近江国蒲生郡より東美濃木曽川河畔の土田村に移り住んだ。渡り田の大井戸渡しを支配して土田村や下畑や川原田を拓き、開墾領主として当地の土豪へと生長した。

  近江佐々木義詮の末裔が、この地来て明智氏に属して土田に築城し土田と名乗ったのが始まりである。弘治2年(1556年)3代城主土田源太夫の時に明智城が斎藤義龍の命を受けた関城主長井道利に攻められ落城時討死し土田氏の直系は絶えてしまった。

  2代城主泰久の2男勘助は母方の尾張丹羽郡小折城主生駒家広に嫡子がなかったので養子となっていたが、親重と改名し土田・小折城を領した。生駒親重は初め犬山城主織田信清に属していたが信長と信清が手切となり犬山城は落城し親重は土田城で謹慎し後信長に仕えた。4

  親重の嫡男親正は信長・秀吉に仕え、戦功を重ね天正13年赤穂6万石の大名となり15年には17万石を拝領し四国丸亀目城主となり土田城は廃城となった

 美濃・土田城は、標高181mの城山にある規模270m×100mの城。この城はあの織田信長の母、土田御前の出生地である。

中世の武士団、東山道近江

 三河伴氏の富永兼網を女婿とし、その子吉弘が頼弘の後 ... 馬杉-中井の諸氏となっており、さらに、頼男の子孫は、代々もと伴氏の庶流ないしは伴部の裔であって、善男との関係は後世の付会に過ぎないであろう。 ... 遺胤が、三河伴氏となったという伝承については前述したつた生駒親正の父親重は、右の土田氏から出て、生駒氏を継いだのである。 ... 光基の弟澄覚のの子光助は建部大夫に復し、承久の乱で京方に属したため誅殺された

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

           本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!