城郭探訪

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船木城  近江国(安曇川)

2015年10月20日 | 平城

 

船木城(主郭)に願船寺が建つ。

天正3年(1575)開基は岌善(岌善は、船木城主佐々木能登守の二男で、知恩院の第29世)

お城のデータ

所在地:高島市安曇川町北船木(旧高島郡安曇川町北船木)map:http://yahoo.jp/tqOS5c

現 状:寺地・水田

築城期:南北朝期

築城者:佐々木師綱

区 分:平城

遺 構:郭・堀・石垣 

目標地値:願船寺

訪城日:2015.10.18

 本堂

 

  

堀・石垣

願船寺(主郭)と石垣・水田(堀跡)

願船寺(主郭)と石垣・水田(堀跡)

 水田より1.5m程高い城址

お城の概要 <script type="text/javascript" language="JavaScript"></script>

願船寺の建つ郭跡は約65mで周囲より約1.5m高く、周囲には一見して空堀跡と分かる帯状の水田が取り巻き、その堀を含めると約100m四方の単郭方形をしている。

石碑や案内などはありませんが、全体分かりやすく、比較的残存状況の良い城跡。

船木城は、安曇川が河口付近で北川と南川とにわかれた三角州の中、高島郡安曇川町大字北船木字輪ノ内に所在し、古くから湖上交通の要衝として軍事的にも重要な位置をしめていた。

城の歴史は、高島郡安曇川町大字北船木字輪ノ内の北船木集落に隣接する南北朝期ころの平城。

近江の在地領主の城の多くが集落のなかに築かれているので、船木城や南西3㎞ほどにある小川城の立地は、珍しい部類といえます。

また、船木城は大溝城を除く高島の中世諸城のなかで最も湖岸に近い位置にあります。おそらく、船木には琵琶湖の湖港があった。船木城と平井氏の重要性がうかがえます。

船木城は、安曇川河口の三角州内部にある船木集落の西に位置する

ちなみに、平井氏といえば、娘が浅井長政の最初の正室となった六角氏家老の平井定武が知られていますが、こちらの平井氏は同じ佐々木氏ではあるものの、まったくの別系統のようです。

鬼門除けの諏訪神社

  願船寺の北東には、鬼門除けの諏訪神社があります。諏訪神社は、明応六年(1497)に平井氏によって造営された。このころまでには、城として船木城が造営されていた。

歴 史

『高島郡誌』や『近江與地志略』に高島七頭の佐々木能登守が城主であったと記されている

 佐々木能登守は、新旭町平井に住していた平井氏から分かれて、受領名を能登守と名乗っていたことから能登氏を称するようになったとされ、師綱、時綱、頼泰、長綱、高勝、定持、持国と続くが、能登守を名乗ったのは時綱以降とされる。

鎌倉時代末期に佐々木師綱によって築かれた。 師綱は、高島佐々木氏の一族で平井に氏から分かれ、能登守を称した時綱-頼泰-長綱-高勝-定持-持国と続いたと云われて、後に受領名から能登氏を称している。 

 、能登氏が安曇川河口部に位置する船木に入部した時期については、南北朝期の応安元年(1368)12月と同2年11月に平井師綱の子能登九郎左衛門尉師信が平井村内の土地を饗庭氏に売却していることから、この頃に移ったのであろうと推測されている。

  明応6年(1497)、北船木の氏神である若宮神社の社殿を能登守長綱が造営しており、また、船木城の北東、鬼門の方角にある諏訪神社も勧請したと伝えられ、このころまでには城として船木城が整備されていたと考えられている。
唯一琵琶湖に面した立地の船木城は、重要な位置を占めていたと思われ、元亀3、4年(1572、3)織田信長が高島に侵攻した際、他の西佐々木一族の諸城とともに落城し、廃城になったようである。

天正3年(1575)には、能登守の子孫が城跡に願船寺を建立して現在に至っている。

 総領家が高島家で、越中守を称し清水山城を居城とし、朽木城、永田城、横山城・武曽城、田中城、船木城、五番領城などが高島一族の居城として築かれました。

北船木の氏神”若宮神社の社殿”を能登守長綱が造営

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査 8 高島郡の城、近江の城郭、淡海の城、『滋賀県百科事典』

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


長法寺館(田屋氏館) 近江国(高島・マキノ)

2015年10月20日 | 居館

 

石垣寺門・館門(四足門)跡の敷石

お城のデータ

所在地:高島市(旧高島郡)マキノ町沢   map:http://yahoo.jp/JtbkUq

現 状:長法寺

区 分:居館

遺 構:土塁、類似石碑・駒札

築城期:室町

築城者:田屋淡路守

目標地:長法寺

駐車場:長法寺

訪城日:2015.10.18

本堂再建の石碑には領主田谷氏 

海津衆田屋氏の説明駒札

お城の概要

百瀬川と生来川が平行して東流するその北岸の沢集落内の長法寺一帯にあったされる居館。

 今も、境内北側・東側にL字状の土塁が残る。土塁内側は庭園化しているが。

明治期の地籍図からは、二重の堀の存在が確認できる。

マキノ町沢には2つの城跡。長法寺館(田屋氏)とこの地の西にある沢村城(饗庭氏)がある

長法寺は戦国期の天文4年(1555年)に田屋(田谷)氏の居館が建立されたのが、

江戸時代の大火で焼失し、寛文3年(1663年)に田屋(田谷)氏の居館跡に本堂が建立されている。

 内側の庭園部

お城の歴史 

長法寺館は、

寺伝によると永正年間に田屋淡路守の家臣 宮島四朗兵衛が証如に帰依し、天文四年に宮島四朗兵衛・菊松親子が道場を開いたのが始まり、また三世了空の代に、丑寅の方向にあった道場を田屋氏居館に移し、永応元年道場を建立したと伝えられ、田屋淡路守の居館

 内側の庭園部

  長法寺の裏に、土塁が残る。

室町幕府の政所執事代の蜷川親元が記した『蜷川親元日記』には、康正6年(1456)9月10日の条に、「江州海津衆」として、饗庭・新保・田屋が蜷川親元の一族蜷川信賢の若君誕生祝いに上洛した記されている。

『鹿苑日録(ろくおんじつろく)』には、

天文7年に高島七頭と呼ばれる高島群内有力領主佐々木六角定頼の命により海津を攻めた合戦では、田屋氏(浅井方)は長法寺館を捨て、山城へ引き(結城である田屋城へ立て籠もっる)饗庭氏は海津西城浜に陣を敷いた。 その後、天正元年に浅井氏が滅ぶと田屋氏も浅井氏と運命を共にしたと考えられている。

  本能寺の変後の天正10年(1582)6月、近江高島郡は丹羽長秀に与えられた。翌年3月に賤ヶ岳の合戦が起こり、羽柴秀吉方の長秀は、柴田軍の南下を阻止するために知内浜城をはじめ、森西城・沢村城・田屋城(詰め城)等を修築したと伝わる。 

田屋氏は北近江・高島郷を支配する土豪であった。

田屋 明政(生没年不詳)は、戦国時代の武将。通称は新三郎、石見守。近江国の戦国大名浅井氏の一族(浅井亮政の婿養子)。

浅井氏当主・亮政の嫡子・新四郎政弘には嗣子がいないまま早世したため、嫡女・浅井鶴千代(政弘の同母姉)の婿として亮政の養子となった。この時、「浅井新三郎明政」と名を改めている(新三郎は亮政の通称であったものを受け継いでいる)。

だが、後に亮政は庶長子(諸説あり)の久政(海津殿の異母弟)を自身の後継者と定めたため明政は姓を「田屋」に戻して、身を引いたという。

養父・亮政の死後、京極氏と手を組み後継者の義弟の久政と争ったという説と、家督の移譲が滞りなく行われたため、争いがなかったとされる説(上の争いには明政が関わっていなかったとする)がある。婿養子は、浅井政高。明政の長女は海津局(婿養子・政高室)、二女は饗庭局。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(高島の城)、レジュメ、高島の城と城下パンフレット

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