船木城(主郭)に願船寺が建つ。
天正3年(1575)開基は岌善(岌善は、船木城主佐々木能登守の二男で、知恩院の第29世)
お城のデータ
所在地:高島市安曇川町北船木(旧高島郡安曇川町北船木)map:http://yahoo.jp/tqOS5c
現 状:寺地・水田
築城期:南北朝期
築城者:佐々木師綱
区 分:平城
遺 構:郭・堀・石垣
目標地値:願船寺
訪城日:2015.10.18
本堂
堀・石垣
願船寺(主郭)と石垣・水田(堀跡)
願船寺(主郭)と石垣・水田(堀跡)
水田より1.5m程高い城址
お城の概要 <script type="text/javascript" language="JavaScript"></script>
願船寺の建つ郭跡は約65mで周囲より約1.5m高く、周囲には一見して空堀跡と分かる帯状の水田が取り巻き、その堀を含めると約100m四方の単郭方形をしている。
石碑や案内などはありませんが、全体分かりやすく、比較的残存状況の良い城跡。
船木城は、安曇川が河口付近で北川と南川とにわかれた三角州の中、高島郡安曇川町大字北船木字輪ノ内に所在し、古くから湖上交通の要衝として軍事的にも重要な位置をしめていた。
城の歴史は、高島郡安曇川町大字北船木字輪ノ内の北船木集落に隣接する南北朝期ころの平城。
近江の在地領主の城の多くが集落のなかに築かれているので、船木城や南西3㎞ほどにある小川城の立地は、珍しい部類といえます。
また、船木城は大溝城を除く高島の中世諸城のなかで最も湖岸に近い位置にあります。おそらく、船木には琵琶湖の湖港があった。船木城と平井氏の重要性がうかがえます。
船木城は、安曇川河口の三角州内部にある船木集落の西に位置する。
ちなみに、平井氏といえば、娘が浅井長政の最初の正室となった六角氏家老の平井定武が知られていますが、こちらの平井氏は同じ佐々木氏ではあるものの、まったくの別系統のようです。
鬼門除けの諏訪神社
願船寺の北東には、鬼門除けの諏訪神社があります。諏訪神社は、明応六年(1497)に平井氏によって造営された。このころまでには、城として船木城が造営されていた。
歴 史
『高島郡誌』や『近江與地志略』に高島七頭の佐々木能登守が城主であったと記されている。
佐々木能登守は、新旭町平井に住していた平井氏から分かれて、受領名を能登守と名乗っていたことから能登氏を称するようになったとされ、師綱、時綱、頼泰、長綱、高勝、定持、持国と続くが、能登守を名乗ったのは時綱以降とされる。
鎌倉時代末期に佐々木師綱によって築かれた。 師綱は、高島佐々木氏の一族で平井に氏から分かれ、能登守を称した時綱-頼泰-長綱-高勝-定持-持国と続いたと云われて、後に受領名から能登氏を称している。
、能登氏が安曇川河口部に位置する船木に入部した時期については、南北朝期の応安元年(1368)12月と同2年11月に平井師綱の子能登九郎左衛門尉師信が平井村内の土地を饗庭氏に売却していることから、この頃に移ったのであろうと推測されている。
明応6年(1497)、北船木の氏神である若宮神社の社殿を能登守長綱が造営しており、また、船木城の北東、鬼門の方角にある諏訪神社も勧請したと伝えられ、このころまでには城として船木城が整備されていたと考えられている。
唯一琵琶湖に面した立地の船木城は、重要な位置を占めていたと思われ、元亀3、4年(1572、3)織田信長が高島に侵攻した際、他の西佐々木一族の諸城とともに落城し、廃城になったようである。
天正3年(1575)には、能登守の子孫が城跡に願船寺を建立して現在に至っている。
総領家が高島家で、越中守を称し清水山城を居城とし、朽木城、永田城、横山城・武曽城、田中城、船木城、五番領城などが高島一族の居城として築かれました。
北船木の氏神”若宮神社の社殿”を能登守長綱が造営
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査 8 高島郡の城、近江の城郭、淡海の城、『滋賀県百科事典』
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