城郭探訪

yamaziro

西円寺館 近江国(米原・西円寺)

2015年10月14日 | 居館

集落の入口(八幡神社横)に城址碑

西円寺山門本堂

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡米原町)西円寺 map:http://yahoo.jp/T9xj4c

区 分:居館  

標 高:120m  比高差:10m 

現 状:寺・山林

遺 構:郭・土塁・城主墓・城址碑・類似説明板

築城期:戦国期

築城者:今井氏

目標地:西円寺 

駐車場:西円寺参拝者駐車場

訪城日:2015.10.12

 西円寺山門本堂

境内には、

創建当時に植えられたと伝わる『木斛樹』、樹齢600年。

龍目井

お城の概要

西円寺館は馬蹄型に山がめくられ、北に開かれた地形。西円寺の本堂の南側は(近江稲荷)土塁と認められるところ

西円寺の山門は奇抜な山門でした。説明板によれば、窟門(竜宮門)と呼ばれる中国形式の門で双龍門(閣)と呼んでいるそうです。寺の南側は尾根の先端がY字に分かれて平地に下りてきている斜面という感じですが、土塁にも見えます。この中腹に、ここを支配した今井氏の墓所があります。

本堂裏に

 

玉泉庭

近江稲荷近江稲荷土塁

西円寺全景(今井一族の墓地)

 

西円寺山門の向かいの山上へ・・・西円寺館の詰め城か?

今井氏墓所中央の小さな墓碑と大きい五輪塔

 向かいにも、墓碑(歴代住職墓か)

山上にも墓碑が一基
境内の南西に張り出した舌状尾根に今井権六三代の墓が残されている。

今井権六三代の墓の刻印は風雨にさらされ、文字はほとんど判読出来ないが、大きい五輪塔は「天正十二年***」と明確に読みとれ、こちらが14代目今井権六秀俊であることは間違いない。ちなみに今井権六三代とは、14代当主が今井権六秀俊(権六尺夜叉),15代当主が今井権六定清(権六備中守),16代当主が今井権六秀形(権六丸)であったことから名付けられている。

歴 史

 京極氏の根本被官(筆頭家老)今井氏の菩提寺であり、境内から100mほどの距離にある今井権六三代の墓には、三代の墓と云われながら、一石五輪塔が2基しかない。あと1基は不明とのこと。
また、境内の墓所に年代の古い宝篋印塔が1基あり、これがそうかもしれないが土に埋もれており、確認は出来ていないとのこと。

京極氏、浅井氏に従った箕浦城を本拠とする今井氏の館とされます。

西円寺の一帯は、京極氏根本被官であった「今井氏の奥城で菩提寺」でもある

 今井氏14代今井権六秀俊は享禄元年(1528)の内保河原の戦いで六角方が敗れたため、浅井方に従ったが天文2年(1533)に浅井亮政に進退を疑われ神照寺で切腹させられた。15代今井権六備中守定清は浅井方に属し、永禄4年(1561)太尾山城の夜襲で敵と見誤った味方の槍で背後から刺されて討死し、また、子の今井権六丸(秀形)は秀吉に従っていたが天正11年(1583)に伊勢にて討死し同じくここに葬られたとあります。 <現地案内板より>

坂田郡では、旧近江町寺倉の西隣の大字西円寺にある西円寺館は、今井氏の一族寺倉氏の屋敷とも・・・安土)城郭研究所HPより

竪堀風斜面竪堀風斜面 

平削地山上にも墓碑が一基

頂部へ

竪堀か?土塁

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3)、 淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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旗本西郷氏邸  近江国(山東・梓)  

2015年10月14日 | 居館

旗本西郷氏邸碑

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡)梓河内 map:http://yahoo.jp/nBdYD3

区 分 :居 館

築城期:江戸期

築城者:西郷氏

遺 構 :郭址・土塁・石碑

訪城日:2015.10.12

第4章 米原市内の鎌倉街道(中世東山道)引用

江戸後期 旗本西郷氏領 梓河内村」 手前側に 「右中山道]、裏側に 「左 旧中山道」を示している。

旧中仙道はぬかるんでいるが少し山に入ってすぐに右に進む旧道を進む。東山道の雰囲

旧中山道旗本西郷氏邸跡

小黒谷遺跡碑

山裾の途中にある「館跡 小黒谷遺跡」。

 梓地区は山間部の狭い範囲であり、有力者が駅(宿)を運営していた。

小川の関・菖蒲池

詳細不明坂田郡史」に稚淳毛両岐王(わかぬけのふたまたおう)の守りし関屋(関所の施設・現存しない)と書かれ、大字柏原小字小川の辺りに比定、小川、古川、粉川または横川の転訛せし地名としている。一面何処も植栽され、あるいは野原となっているが、戦時中は食糧増産のため開墾、畑となっていたところである。したがって、往事を偲ぶようすはないが、古道の山側には整然と区画された屋敷跡「館跡」を確認することができる。 (米原市・米原観光協)

菖蒲池跡

君がながしき例しに長沢の 池のあやめは今日ぞ引かるる 大納言俊光

  「此の池の芹、名産なり、相伝う。古昔二町(218メートル)四方の池なりと。今は多く田地となりて、漸く方二十間(36メートル)計りの池となれり。」    享保十九年(1734)『近江與地志略』

 その後、天保十四年(1843)には、「菖蒲ケ池と申し伝へ候旧地これ有り。」と  『中山道宿村大概帳』  江戸後期には消滅したようである。

  『近江坂田郡志』は、この池が天野川の水源だったと述べている。

 参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3)、現地案内板、 第4章 米原市内の鎌倉街道(中世東山道)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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小川(こかわ)の関 近江国(山東・柏原)

2015年10月14日 | 関所

下部分が新しく補修され継ぎ足された「小川関跡」の古い石柱が立つ
このあたりに東山道の関所があったところという

案内板

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡山東町)柏原町小川  map:http://yahoo.jp/nBdYD3

区 分 :関所

築城者:不 明

築城期:鎌倉期

関 守:稚淳毛両岐王

遺 構 :石碑・館跡、寺院跡

訪城日:2015.10.12

第4章 米原市内の鎌倉街道(中世東山道)引用

昔は、天野川の水源だったとされ,200m四方ほどの池であったというが、江戸末期には消滅してしまったらしい。

小川の関・菖蒲池

詳細不明坂田郡史」に稚淳毛両岐王(わかぬけのふたまたおう)の守りし関屋(関所の施設・現存しない)と書かれ、大字柏原小字小川の辺りに比定、小川、古川、粉川または横川の転訛せし地名としている。一面何処も植栽され、あるいは野原となっているが、戦時中は食糧増産のため開墾、畑となっていたところである。したがって、往事を偲ぶようすはないが、古道の山側には整然と区画された屋敷跡「館跡」を確認することができる。 (米原市・米原観光協)

菖蒲池跡

君がながしき例しに長沢の 池のあやめは今日ぞ引かるる 大納言俊光

  「此の池の芹、名産なり、相伝う。古昔二町(218メートル)四方の池なりと。今は多く田地となりて、漸く方二十間(36メートル)計りの池となれり。」     享保十九年(1734)『近江與地志略』

  その後、天保十四年(1843)には、「菖蒲ケ池と申し伝へ候旧地これ有り。」と 『中山道宿村大概帳』 江戸後期には消滅したようである。昔は,天野川の水源だったとされ,200m四方ほどの池であったというが,江戸末期には消滅してしまったらしい。

お城の概要

 旧中山道沿いに石碑と案内板があり、そこから民家を横切って藪中へ入ると、発掘調査により検出された館と寺院の跡があります。少し先で舗装された中山道に合流する。
 下部分が新しく補修され継ぎ足された「小川関跡」の古い石柱が立つ。
約八百年前、自然の地形を利用した中世の東山道(鎌倉街道)、このあたりに東山道の関所があったところという。
このため今まで、街道の議論がされてきたが、具体的に示されたものはなかった。その隣には、「菖蒲ヶ池跡」の石碑が建つ。江戸後期には消滅したようである。

右手の旧道(右)に入りますが、分岐する所に小川の関碑や歴史街道の道標、菖蒲池跡碑等、もろもろが置かれています。
中世に関があったこの地、今は長沢になっていますが、古くは小川(こかわ)、古川、粉川とも言われたようです。

小川の関から西に300mほど行くと、梓ノ関があります。小川の関が、関所と呼ぶには開けた場所にあるのに対して、梓は南北に山が迫る峻険な地形にあるため、実際の関は梓に設けられ、小川には横河の宿駅と役宅が置かれていたのではないかとも思われます。

小黒谷館跡の石碑

寺院跡の石碑

伝・横川の宿駅跡

 中山道伝・横川の駅家跡

梓川を渡り梓河内集落に入ると、国道・梓川に挟まれた道を進みます。
右に「推定横川の駅家(うまや)跡」説明板があります。
横川駅の位置は、醒井と梓河内の二説あり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」「馬屋ノ谷口」や略称とされる「小川」の地名があることから、古代東山道の駅家跡と推定されると記されています。

推定横川の馬屋跡(よかわのうまやあと)

古代律令国家は畿内から全国に、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道と30里(約16km)ごとに駅屋を設けました。

近江の東山道には勢多(大津市)、篠原(野洲市)、清水(東近江市清水鼻)、鳥籠(とこ・彦根市鳥居本)と横川(米原市梓河内)に駅屋が置かれました。

米原市内にあった横川駅の位置は、醒ヶ井と梓河内の二説があり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」「馬屋ノ谷口」や、横川の略称とされる「小川(こかわ)」などの地名があることから、古代東山道の横川の駅家跡に推定されています。

古代近江の交通路 中山道

歴 史

 『坂田郡志』に記されている「関屋」の比定地である。発掘調査により、館や寺院の跡が検出されている。 詳細は不明であるが、この小川を壬申の乱の舞台の一つ「横河」の転訛であるとする説がある。また、同じく律令時代の東山道横河駅を小川に比定する説もある。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3) 淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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