城郭探訪

yamaziro

沖島の歴史

2014年04月22日 | 番外編

歴史年表

時代 西暦 主な出来事
奈良時代 713 藤原不比等が沖島に奥津島神社を建立
奈良末期 恵美乃押勝が反逆の罪に追われ、一族をつれ沖島に流される
「淡海の海 奥津島山奥まりて わが思う妹のこと繁けん」  万葉集 柿本人麻呂
平安時代 1159 保元・平治の乱で敗れた源満ち仲の落ち武者七人が沖島に漂着して住みついた『落人伝説』
堅田漁民の師範のもとに、漁業を、沖合から対岸にかけて拡張し、漁具・漁船の改善をはかった
室町時代 1336 沖島は南朝新田氏の再起の根拠地となった
1443 八代将軍足利義政は、沖島に番所を設け、湖上航通の取締を命じ今舞の局を沖島にかくまった
1467 応仁の乱に破れた堅田漁民が沖島に逃れ、復帰をはかった
1535 佐々木六角氏やその家臣池田大和守の御使や中間がしばしば沖島に出向いている。
塩・材木・兵糧米・軍事用の物品の搬送にも動員され沖島の船・船頭がこれにあたっていた
1566 浅井長政が沖島惣に宛てた書状の中で、船舶の通航を保障するとともに矢銭(軍事課銭)を
免除することを通達している
1569 沖島は六角氏の軍事編成の中で船舶般送部門を担当された
1570 織田信長は浅井氏攻略戦のさい沖島惣中のもつ足の早い船三艘を動員された
1573 安土城造営当時より、沖島・奥嶋の一帯は軍事調練の場として活用されていた
織田信長が小谷城を攻撃するとき、沖島に居住する武士(漁師)に小谷城の裏山からの攻撃を命じた
信長より申出通りの褒美(漁業権)を永久に頂戴して帰郷した
1574 信長より漁業権を認定した上で警固も義務づけられていた
1579 沖島は特権と商業的利潤を得ていることにより御礼米という形で安土へ進上することを指示
1580 信長は沖島大地曳編漁獲魚献上を受けその礼状をおくっている
1590 豊臣秀吉は大津の浜で大地曳網の天覧を沖島・堅田の漁師に命じた
1592 秀吉は朝鮮出兵に際して琵琶湖周辺から水軍を徴発、沖島からも従軍者を出している
江戸時代 1600 沖島は家康の側についた。家康は関ヶ原の戦いの戦勝の祝いに沖島の住民から白米を受け取る
1734 享保十九年、寒側辰清はその著近江興地志に「漁人多く住み その島の石をとってこれを売る
おのが居を亡すものなりというべし」と書いてみる
1773 堅田西乃切と沖島の間に漁場をめぐる論争が起こった
1782 堅田小番城の釣り漁師が沖島の漁場で釣漁を許可してくれるよう願い出る
1805 田畑の開墾が必要となり、対岸に求めている
1822 堅田の釣り漁師が沖島の網場を荒らす
1852 沖島の救主ともいわれた茶谷龍城氏が西福寺で生まれた
1855 対岸の宮ヶ浜の平地三町余を田畑化し年貢を貢納することを申請した
安政年間に沖島は大火災にあい、住宅再建
明治時代 1875 県知事は島民に永代湖上借区の免許状を与える
1887 島内で石材採掘がさかんに行われた
茶谷龍城氏父業を継ぎながら開業医として島民の健康に意を用いた
1889 蒲生郡島村沖島になる
1893 島村立沖島尋常小学校開校式
1896 県内大雨。史上最大の水害
1902 県が漁業法を発布
1904 南郷洗堰の建設。湖面の水位が低下する
1905 沖島尋常小学校に水産補習学校が付設
1908 沖島が専用漁業免許状を受ける
1909 沖島343番地に沖島小学校が新築される(旧校舎)
1910 漁業法が施行される
大正時代 1912 第二琵琶湖疎水完成
1914 共有山林大岩ガ鼻の石切場権利の譲渡を受ける
石材販売組合が組織された
1921 沖島防波堤改修工事
1923 石材価格が最高になる
昭和時代 1928 沖島電灯会社設立。沖島に初めて電灯がついた
アメリカ産の川マスが琵琶湖に放流される
1929 琵琶湖産コアユを東京へ空輸
1932 栗谷に新港が建設された
1935 第一回琵琶湖対策会議
1938 沖島郵便取扱所開設
1940 沖島郵便局と改称  沖島尋常小学校と改称
1945 失火によって沖島発電所が全焼
1947 関西配電により水中ケーブルで送電が開始された
沖島中学校を併設。島村立沖島小学校と改称
1949 漁業法改正 第一種共同漁業の免許を得た
1951 島村を廃し、蒲生郡八幡町に編入
専業漁場を返還し、共同漁業権が免許された
1953 沖島港が第一種漁港に指定された
1955 153世帯 808人
1960 PCB被害(魚・シジミ)
1961 新洗堰完成
1964 琵琶湖大橋開通
1965 152世帯 747人
1968 琵琶湖水質汚濁防止連絡会議。琵琶湖総合開発第一次
1970 この頃から木造船からプラスチックが使用されるようになる
1971 琵琶湖のゴミ総ざらえ運動
1972 琵琶湖を美しくする運動発足
1973 新漁港着工 淡水赤潮発生
1974 琵琶湖総合開発により近代的な漁港が造成される
1977 赤潮発生。アユ一万匹死ぬ。合成洗剤追放運動
1979 琵琶湖条例ができる
1981 新漁港完成。赤潮発生8カ所
1982 沖島に浄化センターが完成
平成時代  1994 異常渇水。マイナス123センチ(9月15日)
1995 栗谷に沖島小学校の新校舎が完成。竣工式が行われる
2008

沖島保育所休所 小学校内に沖島幼稚園開園、柔軟な通学区域の制度が始まり、八幡小学校区から1名転入
3月末、通学船「わかば」廃船


黒田城(黒田屋敷) 近江国(木之本)

2014年04月21日 | 居館

お城のデータ
所在地: 滋賀県長浜市木之本町黒田 map:http://yahoo.jp/YbET5VW
別 称:黒田屋敷 

現 状: 黒田集会所

区 分:居館
築城期:
築城者: 源宗清(黒田判官) 
遺 構: 黒田家御廟所

目標地:黒田会議所

駐車場:黒田会議所の駐車場
訪城日: 2014.4.21   

お城の概要

木之本町黒田集落の黒田集会所があり、東側の庭園の北東角の御廟所の石塔と碑、説明板がある

黒田村絵図【縦55.5㎝×横78.9㎝】

 黒田官兵衛の曾祖父まで居住したと言われる屋敷跡には、「字構(あざかまえ)」と記された附箋が貼られている。現在は明確にはたどれないが、明治初期にはその周囲が堀であったことが確認できる。その他、重要文化財の木造伝観音立像が所在することで著名な黒田(保崎谷)観音堂(本図では「観音寺」と記されている)など、各小村にある祠や堂なども絵画的に描いており、親しみやすい絵図となっている。
本村は賤ヶ岳古戦場の一部であり、東山に築かれた田上山砦、それに北隣の坂口村内の大岩山砦の位置などが、朱で注記されている点も興味深い。 
 北西山上の「岩原」には、柴田勝家軍が大岩山砦を攻めた時、時山彦治郎と安井左近が秀吉方の賤ヶ岳砦を押さえるために陣した場所との記載も見える。
 図面右下(北を上にした場合)に、本村の村高が1,411石5斗2升であること、戸数が198戸であること、慶長7年(1602)8月の検地では、田畠合計92町7反9畝4歩であったことも記している。 

黒田氏

●藤巴/黒餅
●宇多源氏京極氏流



 戦国時代、竹中半兵衛と並ぶ軍師と称された官兵衛孝高を出した黒田氏は、宇多源氏佐々木氏の末流といわれている。

鎌倉時代の末、近江北方六郡守護である佐々木京極佐渡守満信の次男四郎左衛門尉宗満が、近江国伊香郡黒田村に住んで黒田判官を称したのが始まりとされる。

 『尊卑分脈』によれば、宗満の後は宗信-高教と続き、その後は高宗-高信-清高までの代々が記されている。室町時代、黒田氏嫡流は宗家京極氏から自立して幕府奉公衆になり、評定衆をもつとめる名門であった。左衛門尉清高には男子がなかったため、京極持清の二男政光が養子として黒田氏を継いだ。黒田氏が京極一族として、重視されていたことがうかがわれる。

 政光の生きた時代は、応仁の乱のまっただ中であった。父持清は細川勝元の率いる東軍に属したため、政光は兄勝秀とともに父に従った。ところが、応仁二年(1468)に勝秀が陣没し、文明三年(1471)には勝秀の嫡子孫童子丸も没したため、政光は京極氏に復帰した。しかし、孫童子丸の後見をしていた弟政経が幕府によって京極氏家督とされたため、それを不服とした政光は西軍に走って政経らと対立した。ここに京極氏は分裂し、政光は六角氏と結んで政経らを圧倒したが、翌文明二年に死去してしまった。享年二十四歳の若さであった。

 京極氏系図にみえる政光には男子がなく、政光の京極氏復帰と死によって黒田氏嫡流は断絶という結果になったようだ。

 しかし、一説によれば政光には男子高政があり、黒田氏を継承して幕府に出仕したのだという。この高政こそ、近世福岡藩主黒田氏が祖とする人物である。一方、『黒田家譜』の「源姓黒田氏系譜」などには、高政は清高の叔父にあたる高宗の子として記されている。年代的にみれば、政光の子とする方が無理はないが、それを裏付ける確証があるわけではない。

黒田氏の歴史

黒田氏の流転

 『黒田家譜』によれば、黒田高政は将軍の怒りに触れ近江を退去させられ、備前邑久郡福岡村に移り住んだということになっている。すなわち、永正八年(1511)、山城国船岡山の戦いに出陣したことき、将軍足利義稙の怒りを被ったというのである。

 船岡山の戦いとは、将軍義稙を擁する細川高国・大内義興の連合軍と、高国と対立する前将軍義澄=細川澄元・三好連合軍との戦いで、義稙方の勝利に終わった合戦である。このとき、高政は佐々木六角氏に従っていたが、軍令に叛いて功名をたてようとしたことから足利義植の怒りをかったのだという。いずれにしても、近江の所領を失った高政は、浪々の身となり備前国に流れていったのである。

 備前国は佐々木氏の一流である加地氏が鎌倉時代より児島郡を本拠としており、一門も各所に散在していた。高政はそのような備前佐々木一族を頼り、当時、備前随一の商都で『福岡千軒』と言われる備前福岡を目指したものであろう。そして、家伝の「玲珠膏(れいしゅこう)」という目薬を製造販売して、暮らしを立てたという。

 かくして、黒田氏は備前に根をおろすわけだが、備前の黒田氏と近江の黒田氏はまったく別系統であり、のちに双方を結び付けた系図が創作されたのだとする説もある。加えて、船岡山における高政の一件は、偽書として有名な『江源武鑑』から引用されたものといい、そのままには信じられいものともいわれている。

黒田氏においては高政という人物がキーマンになるわけだが、その実在も含めて事蹟については不明なところが多い。 
 高政の子重隆は武家としての立身を願ったようで、備前から播磨に移り住んだ。そもそも備前・播磨は赤松氏が守護職を管掌したところであったが、赤松氏の権威は地に墜ち、播磨は群雄割拠する「播磨錯乱」と称される政情であった。また、備前は赤松氏の重臣であった浦上氏が下剋上によって支配下においたところであり、商都福岡には播磨の情報が集まっていたと思われ、重隆は播磨にこそ出世の好機があると睨んだのであろう。播磨に移住した重隆は広峯神社の御使と組んで家伝の目薬の製造・販売を行い、得た財を低金利で貸付け、たちまち土豪として成長を遂げていったのである。
 ところで、兵庫県黒田庄町黒田において従来の説と趣を異にする「黒田氏系図」が発見され、黒田氏はもともと播磨国の一土豪であったのではないか、とする説も出ている。
………

官兵衛の活躍

 天正四年(1576)、毛利氏は織田方となった小寺氏を攻撃、先鋒浦宗勝の率いる軍勢が姫路英賀に上陸した。官兵衛は劣勢の小寺氏にあって、精兵五百騎と策謀をもって毛利軍に大勝、信長から感状を受けた。
 当時の播磨は旧守護家である置塩赤松氏をはじめ、東の三木城に別所氏、西の長水山城に宇野氏、龍野赤松氏ら中小の大名が小競り合いを繰り返していた。翌年、信長の中国攻めの総大将として秀吉が播磨に入ってくると、官兵衛は播磨の諸大名の間を説き歩いて、秀吉の播磨攻略を援けたのである。そして、毛利方として節を通す佐用城の福原氏、上月城に拠る上月氏らを攻略、政戦ともに抜群の活躍をみせた。
 しかし、やがて毛利氏の巻き返しがあり、三木城の別所氏が反旗を翻すと、信長方になっていた諸大名も雪崩をうって毛利方となった。さらに、信長の部将で摂津有岡城主の荒木村重までが謀叛を起こすにいたった。この情勢の変化をみた官兵衛の主家である小寺政職も動揺を見せ、秀吉はもちろんのこと官兵衛も最大の危機に立たされた。
  官兵衛は事態を打開するため、有岡城に乗り込んで村重の説得を図った。ところが、返って囚われの身となってしまった。官兵衛がなかなか戻ってこないため、信長は官兵衛が村重方に寝返ったと決めつけ、人質として差し出されていた官兵衛の一子松寿丸を殺害するように命じた。これを救ったのが、官兵衛と並んで秀吉の軍師をつとめていた竹中半兵衛で、半兵衛は松寿丸を居城に隠してついに守り通したのであった。
 かくして官兵衛は、有岡城の落城まで牢獄につながれ、開放されたときは、頭の毛は落ち、足は萎えてしまい「びっこ」となってしまっていた。
………

 

 

:黒田官兵衛孝高(如水)の肖像

秀吉の天下取りに尽す

 天正八年正月、三木城を落した秀吉が三木城に移ろうとした時、孝高は姫路城を秀吉に譲り、代わり宍粟郡を与えられ篠の丸城に入った。このころ、主家の小寺氏は没落しており、官兵衛は信長の命で小寺姓を棄て、黒田の名乗りに戻っている。
 以後、官兵衛は秀吉の幕下にあって、天正九年六月に因幡国鳥取城を包囲し、同年七月に淡路・阿波を経略、十一月には淡路由良城主安宅河内守を攻略し、淡路を平定した。翌天正十年(1582)、毛利氏と雌雄を決せんとする秀吉に従って備中国に出陣した。四月、清水宗治が守る備中高松城を包囲した。ここで、官兵衛が秀吉に水攻めの策を献じたことから、史上有名な「備中の水攻め」となった。
 ところが水攻めも大詰めとなった六月、本能寺の変で信長が光秀に殺害された。この知らせを聞いた秀吉は放心の体であったが、官兵衛は秀吉にそっと「上手になされませ」と囁いた。それを聞いた秀吉は、何もいわず官兵衛を見返したという。そのとき官兵衛は、さかしらな失言をなしたことを思い知ったのであった。
 ともあれ、毛利氏との和議が進められ、城将清水宗治が切腹することで高松城の戦いは終わった。かくして、史上に残る秀吉の大返しが行われ、山崎の合戦で光秀を討った秀吉が天下取りに躍り出たのであった。その後も孝高は秀吉の帷幕にあって、賤ケ岳の合戦、小牧の戦いなど、秀吉の天下取りの合戦において多くの軍功をあらわした。そして、天正十五年(1587)九州征伐の先陣をつとめ、戦後の行賞において豊前国内のうち六郡十二万石を与えられた。
 黒田氏が新領主となった豊前六郡は、そもそも鎌倉時代以来の地頭である宇都宮城井氏が領していたところであった。ときの当主城井鎮房は豪勇の武将として知られ、秀吉の九州平定にも従い、伊予に新領を与えられたがそれを断って旧領である豊前に居坐っていたのである。黒田氏の入部に抵抗した鎮房は長政の率いる討伐軍を撃破する勢いをみせたが、嫡子朝房らを人質として差し出し、さらに女子を長政の室として黒田氏に帰順した。しかし、領内に対する城井氏の存在は侮れないものがあり、官兵衛・長政父子にしてもその処遇に悩まされた。
 そのようなおり、肥後に国人一揆が起り、官兵衛はその鎮圧に出陣した。そのとき、留守を守る長政に一計を授け、城井朝房を同行して肥後に出発した。長政は岳父鎮房を中津城に招き、その宴中において謀殺した。一方、官兵衛は朝房を殺害して、目の上のたんこぶであった城井氏を滅亡に至らせたのである。官兵衛は戦国時代きっての器量人といわれたが、この城井氏の扱いだけはかれの人生における数少ない汚点の一つとなった。

官兵衛の不運

 官兵衛は廉潔な人柄で、知恵も勇気もあり、武将としての能力もずば抜けていた。しかし、知恵が先走るところがあったようだ。
 毛利一族でのちに官兵衛と親しくなった小早川隆景は、官兵衛に「如水(官兵衛の号)殿、おぬしは頭が良すぎる。だから決断が早い。しかし、あまりに決断が早すぎると、間違う場合がある。そこへいくと私は生来愚かだから、考えて考え抜く。慎重に事を運ぶから、後で後悔することは一度もない。しかしあなたの場合はどうだろうか。おそらく後悔されることが多いのではないだろうか」と語ったという。隆景は官兵衛のおせっかいで、秀吉の正室高台院の甥秀秋を養子に押し付けられようとした毛利氏に代わって、秀秋をみずからの嗣子に迎えるという苦い経験をもっていた。隆景は官兵衛の知恵の冴えには軽忽な色合いがあり、かえって官兵衛の欠点ともなっていたことを見抜いていたのであろう。

 天下人となったのちの秀吉が、あるとき近習との談話で、「秀吉死後に天下を取る者は誰だと思うか」と聞いた。それぞれ「徳川家康」あるいは「前田利家」などと名前を挙げたが、秀吉はそれらにかぶりを振って、「官兵衛こそ、秀吉死後に天下を取る者である」といった。これを聞いた官兵衛はただちに剃髪して如水と号し、隠居を願い出て、天正十七年、家督を嫡子長政に譲ったという。
 秀吉の天下取りの事業に果たした官兵衛の役割は大きかった。しかし、それに報いられたものは豊前国六郡十二万石であった。これは、官兵衛の才覚を畏怖した秀吉が、構えて官兵衛に大封を与えなかったためであるという。
 天下を取った秀吉にとって、天下取りの枢機にあづかり、ことあるごとに知謀のきれをみせた官兵衛の存在は、すでに警戒されるものでしかなかったのであった。官兵衛もよくその機微を察し、進退を誤ることは無かったといえよう。以後、官兵衛は長政をオモテに立て、みずからの存在を韜晦していたようだ。 

近世大名、黒田氏へ

 その後、秀吉が慶長三年(1598)に病死し、慶長五年に関ヶ原の合戦が起こった。このとき、官兵衛は豊前国中津に在り、黒田の兵は長政に従って家康の陣にあった。官兵衛はただちに貯えてあった金銀をばらまいて、たちまち九千余の兵を集めた。上方で家康と三成が戦っている間に九州を平定して、その勢いをもって家康か三成かいずれか勝ち残った者と決戦をして天下を取ろうと目論んだのである。
 官兵衛はまず、三成の後押しで豊後国に上陸した大友吉統の軍を打ち破り、その余勢をかって城主のいない三成派の城を次々と攻略、あっという間に島津氏を除いた九州一円を制覇してしまった。官兵衛の軍は数万に膨れ上り、京に上って決戦を挑む気にもなっていた。
 ところが、皮肉なことに息子長政の裏工作で、関ヶ原の合戦は一日で終了していたのである。石田三成は処刑され、長政は筑前一国五十二万石を拝領していた。表面上、九州の家康方として行動した官兵衛には何の沙汰もなかった。家康は官兵衛の「天下取りへの野望」を見抜いていたのである。戦後、凱旋してきた長政が父官兵衛に「家康殿は長政の働きに対して右手を取って感謝してくれた」と報告した。それを聞いた官兵衛は「そのとき、御前のもう一方の手は何をしていた」と一喝、長政ははじめて父の真意に気付いたという。
 その後の官兵衛は何事もなかったかのように、楽隠居となって、筑前福岡と京都を往復して暮らし、歌や茶道の風雅に遊んで、慶長九年三月二十日に世を去った。官兵衛は乱世には珍しい人情家であったが、晩年、人変わりがしたように廻りの者を怒るようになった。それが度をすぎることもあって、ついに長政が父をなだめた。そのとき、官兵衛は「これは御前のためにやっていることで、いまわしが嫌われれば、死後の政治がやりやすくなるではないか」と語った。父の深慮遠謀の衰えていないことを知って、長政はなだめようとした自身の愚を恥じ入ったという。
 こうして、黒田氏は五十二万石を領する大大名に出世し、代々、封を継いで明治維新に至った。ところで、黒田氏は江戸時代なかごろより、男子に恵まれずに養子が続いた。それは、謀略によって滅ぼされた城井氏の怨念のなせるものと噂されたという。あれだけ知恵の冴えをみえた如水にとって、城井氏の一件は、まことに痛恨の極みであったといえよう。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、、ウィキペディア、

本日の訪問ありがとうございす!!


大岩山砦(陣城) 近江国(伊香・余呉)

2014年04月20日 | 平山城

賎ヶ岳合戦 フィールドワーク 大岩山砦 
日 時 2014420日(日)9:301230
場 所 長浜市余呉町下余呉1938 はごろも市

交 通 JR北陸本線「余呉駅」下車 徒歩5
内 容 織豊系陣城 大岩山砦の遺構を詳細解説

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏
定 員 20名(要申込)
参加費 500円 奥びわ湖観光協会余呉支部主催

大岩山陣城見学会へ

坂虎口

「青嵐大岩山」と刻まれた石碑と「中川清秀の墓」という案内板。 

岩崎山砦から整備された山道を進み、途中林道に合流して少しで、大岩山砦に着く。

大岩山砦の現地説明板。

①坂虎口 城の入口の前の坂道を坂虎口という 一説に中川は坂の途中で戦死したとある ②二の丸の土塁 ③横矢

大岩山砦の歴史

・天正11年(1583年)茨木城主 中川清秀が余呉湖東の大岩山に設置。
・同年4月20~21日 柴田軍の佐久間盛政が行市山砦を出陣し、西浅井町集福寺~権現坂~余呉湖畔~尾野呂浜を経由し、大岩山を急襲。
・まだ、堅固な守備体制が整っていなかった大岩山砦、盛政方の兵8000に対し、大岩山の中川方は1000足らず。岩崎山の高山重友、賤ケ岳の桑山重晴に援軍を求めるもかなわず。
・味方はことごとく討ち死にし、中川清秀は雑兵に討たれるくらいならと、本丸で自害?。享年42歳。
・落城の直前、清秀の弟、中川淵之助が「我こそは中川瀬兵衛清秀」と身代わりになって果てて、清秀の首は敵方に渡らず。
・下余呉の村人が、清秀の遺骸を本丸南の谷に移し、柴と木の葉をかけて隠し、7昼夜守った。

・大岩山の南200mほどの尾根道を東に少し下った谷に、清秀の首を洗ったといわれる「首洗い池」がある。

所在地:伊香郡余呉町下余呉 map:http://yahoo.jp/qZEAdW  

築  城:天正11年(1583)3月~  廃  城:天正11年(1583年)4月

初城主:高山右近

区  分:山城(陣城)

遺  構:曲輪・土塁・外堀・慰霊碑(墓碑)

標  高:280m 比高差150m                                                                              

城 域 : -

訪城日:2014.4.20

曲輪の奥には中川清秀主従の供養塔がある。これは百回忌の天和2年(1682年)豊後岡城4代城主中川久恒(清秀の5代嫡孫)がその霊を供養せんと祖宗主従の眠るこの地に建立した。

曲輪には周囲に低い土塁が一部残っている。曲輪は南北20m、東西40mほど。

墓碑の奥の虎口に石積が(当時のものかは不明と?)

墓碑はキリシタン大名の十字架の鉄扉

裏側に廻ると南無阿弥陀仏の墓碑

近世に設置の仕切り。左がⅡの郭・右は一壇高く主郭

参加者の記念撮影後、全員でアーメン!

イカリソウがひっそりと!

大岩山砦は賤ヶ岳から東に延びる尾根の先端に築かれ、東には高山右近が布陣した、岩崎山砦と隣接している。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板、講師:長谷川博美氏の現地説明・見学会レジュメ

本日も訪問、ありがとうございました


岩崎山砦 近江国(伊香郡・余呉)

2014年04月20日 | 平山城

賎ヶ岳合戦 フィールドワーク 大岩山砦 
日 時 2014420日(日)9:301230
場 所 長浜市余呉町下余呉1938 はごろも市

交 通 JR北陸本線「余呉駅」下車 徒歩5
内 容 織豊系陣城 大岩山砦の遺構を詳細解説

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏
定 員 20名(要申込)
参加費 500円 奥びわ湖観光協会余呉支部主催

江土集落の中にある賤ケ岳登り口の標識に従い、山道へ。
 

大岩山陣城見学会へ

途中、岩崎山砦(陣城)前で、概要説明

長谷川博美氏の現地説明板

2009年12月作成の説明板。
城①岩崎山西出郭、②西出郭主要部、③狼煙穴と推定、④犬走り「段状の道を築いて臨時城砦としている、⑤3段の犬走りで主郭を防御、⑥主郭中心部(低い土塁あり)、⑦高山右近がいた陣の櫓台の跡、⑧3段犬走りで主郭を防御、⑨未完成の陣城、⑩東出郭、⑪円墳丘を利用した出郭
と、説明されているが、倒木やササ繁茂など未整備であるため正直よくわからない。残念です

広く整備された道をググッと登ると程なく、山道左脇に「岩崎山砦説明板」が目に入る。右側で砦跡。遺構の解説がされてますが、よくわからない。

②の西出郭は植林の中で、③狼煙穴はちょっとした窪み、⑥、⑦の主郭は部分的に低い土塁が残った平坦地である。雑木で展望はよくない。⑨、⑩の方も笹が繁茂し不明確。

所在地:伊香郡余呉町下余呉 map:http://yahoo.jp/qZEAdW 

築  城:天正11年(1583)3月~  廃  城:天正11年(1583年)4月

 

初城主:高山右近

 

区  分:山城(陣城)

 

遺  構:曲輪・土塁

標  高:209m 比高差70m                                                                              

城 域 : -

訪城日:2014.4.20

登城道と曲輪跡
登り始めて8分ほどで最初の頂部になるが、この左側に3箇所ほど削平地があり、ここが岩崎山砦跡らしいが、 強烈な藪で全く何の感動もない!

岩崎山砦は賤ヶ岳から余呉湖東岸沿いに北へ伸びた丘陵の北端、標高209.4mの山頂に築かれている。岩崎山砦は山頂の主郭を中心に、西、東の尾根に曲輪を配しているが、遺構の状態は良くなく不明瞭な部分が多い。 

主郭は山頂尾根にあり土塁が巡る曲輪があり、西側に開口部がある。土塁は低く、切岸も不明瞭で北へ伸びる尾根に段々の削平地が描かれるもそれを把握するのは難しい。 

西尾根の曲輪は賤ヶ岳砦へ向かう登山道の脇にあり、北端部に弓なり状の横堀があり、尾根上に平段が設けられている。 

東尾根の遺構は主郭部から東端に向かう所に土塁があり、虎口となっているようであるがこの辺りは藪化しておりその形状を把握するのが難しい。東尾根の北端には方形の土壇があり古墳跡を利用した櫓台とも考えられている。 

歴 史

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれた。 城将は摂津国高槻城主の高山右近であった。

 羽柴秀吉に降っていた長浜城主柴田勝豊の家臣山路正国は、秀吉方として堂山砦に布陣していたが、密かに砦を抜けだして柴田方へと走った

 これによって秀吉が賤ヶ岳の陣を抜けだして美濃の岐阜城主織田信孝を攻めにいったことが柴田方に知られることとなり、柴田方の武将佐久間盛政が賤ヶ岳の砦を急襲した。

このとき佐久間盛政が急襲したのが大岩山砦と岩崎山砦で、大岩山砦の中川清秀は討死、高山右近は砦を脱して逃げ延びた(敵前逃亡でる)。

余呉湖に下ります、旧坂

イカリソウがひっそり咲いていた

余呉湖畔の登城口の説明板・・・ここからは急坂(階段約50m)

湖岸です

大岩山砦は賤ヶ岳から東に延びる尾根の先端に築かれ、東には高山右近が布陣した、岩崎山砦と隣接している。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板、講師:長谷川博美氏の現地説明

本日も訪問、ありがとうございました


鮎河山城 近江国(甲賀・土山)

2014年04月19日 | 山城
 

付録【新城発見踏査に同行】見学

日 時 413() 414() 両日同内容           

講師 長谷川博美氏 (愛知中世城郭研究会)  

鮎河城跡

所在地:甲賀市土山町鮎河 map:http://yahoo.jp/Pym0tY

遺構等:土塁、横堀、竪堀、虎口

現状:高尾城跡と鮎河城跡山林

築城年:南北朝期

築城者:頓宮弥九郎

歴代城主:頓宮氏

区  分:山城(詰め城・出城)

訪城日:2014.4.13

現地踏査図:長谷川博美氏作図

 南北朝時代に南朝に属していた頓宮弥九郎(鮎河弥九郎)が南朝軍反撃の拠点とした城です。

建武5年(1338)、頓宮弥九郎は兵を挙げ鮎河城に立て篭ったが、北朝軍の佐々木秀綱に従った山中橘六、小佐治右衛門、美濃部兵衛三郎らの軍に攻められ落城した。

  近江には中世の城館跡が大変多く、約1300ヶ所以上といわれていますが、

特に甲賀郡はそれが密集している地域で約300ヶ所もあります。    

 これは甲賀五十三家と呼ばれるように主家、分家、親戚などからなる同名中惣(地侍の運命共同体のようなもの)が多数存在したからです。土山町には現在判っている城館跡だけで土山城址、音羽野城址、山中城址、頓宮城址、黒川城址、鮎河城址、それに大河原氏砦址と7ヶ所もありますが、そのうち鮎河地域に3ヶ所もあります。山中城址以外はいずれも頓宮氏の同名中惣と思われます。

  城といっても、近世の天守閣をもつ大きなものではなく、土塁のようなもので石垣も一部使われていた。

 鮎河の東端の山すそにあります。南北朝の頃、南朝に属していた頓宮肥後弥九郎が反撃の拠点として築いた要塞跡で、ここで二度にわたり北朝側と戦いましたが、いずれも武運つたなく敗れ去った。

大河原城・・・鮎河館より(遠景)

鮎河山城・・・ウグイ川より(遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、長谷川博美現地見学会(説明・レジュメ)

本日も訪問、ありがとうございました


大名刻印石、山科で続々確認 毛利家と京極家

2014年04月18日 | 遺蹟

大名刻印石、山科で続々確認 毛利家と京極家

(左)「一に◯」に二が付いた刻印石。採石場の中でグループ分けをしていたと思われる。(右)新たに見つかった「四つ目」の刻印石。四角の中に◯が描かれている(京都市山科区)

 京都市山科区大塚の山中で見つかった採石場跡で新たな大名刻印石が続々と確認されている。同じ大名家の石で従来と異なった刻印があり、山中でグループ分けしていた可能性がある。石垣の専門家は、伏見城や大坂城の石垣のために時代を経て採石してきた石切り場とみている。

 地元住民らによる調査グループが、毛利家を示す「一に◯」の右横に「二」の数字が刻まれた石を初めて発見した。また京極家とみられる「四つ目」の石も新たに2個見つかった。そのうち一つの刻印には四つの菱の中に「◯」が入っていた。石を搬出したとみられる谷筋では、石を割る際に入れる「矢穴」が残った石がいくつも見つかった。

 新たな刻印石の発見によって、毛利家と京極家の採石範囲が特定された。現地で調査した森岡秀人・日本考古学協会理事によると、自家の採石範囲を示す刻印石で、「一に◯」の「二」は毛利家の中で4組あったうちの1グループを示しているという。新たな「四つ目」も京極家の別グループの採石範囲とみられる。

 採石した時代については、古い文献に山科で石垣に自然石を使った豊臣秀吉の時代の伏見城のため採石したとの記録があり、桃山期から活用されていたことは知られていた。

 さらに、矢穴の形状などから江戸期に及ぶことが分かった。1600年前後の石が残っている地帯では、関ケ原合戦後に徳川家が再建した時期の伏見城に使われたとみる。徳川家が再建した伏見城の石は23年の廃城後、淀城や徳川期の大坂城の石垣に使われた。さらに、19年ごろの採石跡もあり、徳川家が再建した大坂城にも使用された可能性が高い。

 森岡理事は「徳川大坂城に使われた石切り場は六甲や九州にあるが、山科は新たな発見となる。豊臣期から徳川期に至る複雑な変遷の中で、複合的に継続して使われたのだろう。今後、淀城や大坂城の石材とのさらなる比較検討などが必要だ」と話している。

http://search.jword.jp/cns.dll?type=lk&fm=109&agent=9&partner=BIGLOBE&name=%B5%FE%C5%D4%BF%B7%CA%B9&lang=euc&prop=495&bypass=3&dispconfig=


古城山の頂上によみがえった水口岡山城(甲賀市水口町)

2014年04月18日 | 城郭・イベント情報

戦国の山城、3日間の復活 滋賀・甲賀、巨大バルーンで

古城山の頂上によみがえった巨大バルーンの水口岡山城(甲賀市水口町)

 滋賀県甲賀市水口町の古城山(283メートル)に17日、戦国時代末期に築かれ、15年で廃城となった水口岡山城が、高さ11メートルの巨大バルーンとして再現された。日没後はライトアップされ、山頂を訪れた市民らが幻の天守の姿に思いをはせていた。

 2012年には水口青年会議所が段ボールを使って同城を再現している。今回は、城のあるまちづくりを目指し、住民有志らでつくる社団法人「水口岡山城の会」が遊具の巨大バルーンを使い、この日から始まったイベント「よみがえれ水口岡山城2014」で披露した。

 巨大バルーンの城は20日まで山頂に置かれ、麓から見上げることもできる。友人と散歩で山頂を訪れた近くの女性(60)は「短期間で片付けるのはもったいない。城の存在に興味を持ってもらい、観光名所になってほしい」と話していた。

http://search.jword.jp/cns.dll?type=lk&fm=109&agent=9&partner=BIGLOBE&name=%B5%FE%C5%D4%BF%B7%CA%B9&lang=euc&prop=495&bypass=3&dispconfig=


中ノ尾城 近江国(甲賀・土山)

2014年04月18日 | 山城
 

高尾城跡と鮎河城跡の間にピークが仮称【中ノ尾城】

所在地:甲賀市土山町鮎河 map:http://yahoo.jp/k4IA2z

遺構等:土塁、横堀、竪堀、虎口

現状:高尾城跡と鮎河城跡の間にピークが仮称【中ノ尾城】山林

築城年:南北朝期

築城者:頓宮弥九郎

歴代城主:頓宮氏

区  分:山城(詰め城・出城)

訪城日:2014.4.13

 現地踏査図:長谷川博美氏作図

 南北朝時代に南朝に属していた頓宮弥九郎(鮎河弥九郎)が南朝軍反撃の拠点とした城です。

建武5年(1338)、頓宮弥九郎は兵を挙げ鮎河城に立て篭ったが、北朝軍の佐々木秀綱に従った山中橘六、小佐治右衛門、美濃部兵衛三郎らの軍に攻められ落城した。

鮎河山城の北にある【仮称 中ノ尾山城】そして西に鷲尾山城(砦)

  近江には中世の城館跡が大変多く、約1300ヶ所以上といわれていますが、

特に甲賀郡はそれが密集している地域で約300ヶ所もあります。     これは甲賀五十三家と呼ばれるように主家、分家、親戚などからなる同名中惣(地侍の運命共同体のようなもの)が多数存在したからです。土山町には現在判っている城館跡だけで土山城址、音羽野城址、山中城址、頓宮城址、黒川城址、鮎河城址、それに大河原氏砦址と7ヶ所もありますが、そのうち鮎河地域に3ヶ所もあります。山中城址以外はいずれも頓宮氏の同名中惣と思われます。

  城といっても、近世の天守閣をもつ大きなものではなく、土塁のようなもので石垣も一部使われていたようです。

 鮎河の東端の山すそにあります。南北朝の頃、南朝に属していた頓宮肥後弥九郎が反撃の拠点として築いた要塞跡で、ここで二度にわたり北朝側と戦いましたが、いずれも武運つたなく敗れ去ったそうです。

中ノ尾城・・・ウグイ川より遠景

大河原城・・・鮎河館より遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、長谷川博美現地見学会(説明・レジュメ)

本日も訪問、ありがとうございました


田上山砦 近江国(伊香郡・木之本)

2014年04月16日 | 平山城

JR木之本駅

意冨布良(おほふら)神社脇の登城口 南郭の【田上山城跡】主郭の現地説明板より

所在地:長浜市(旧伊香郡)木之本町大字黒田   map:http://yahoo.jp/ITJx2G                                                                                

別  名:木之本城

区   分:山城(砦)

築   城:天正11年(1583)

城   主:羽柴秀長

遺  構:虎口・竪堀・馬出城

 城 域:380m×130m

標 高:323m  比高差200m

二十八番札所「成相寺」の聖観音

中腹まで、林道が整備されて5~6台駐車可

5~6台駐車可

築城年代は定かではない。元亀4年(1573年)浅井・朝倉氏と織田氏が争った元亀争乱で、朝倉氏の軍勢が田上山に布陣していたという。 

信長公記―――――巻六 元亀四年 13、刀根山合戦  刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事

 この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦では羽柴秀吉方の砦として秀吉の弟羽柴秀長が布陣し、秀吉方の本陣的な役目を果たした。

田上山砦は、田上山(標高323m)の山頂付近に築かれ、比高200mほどの山頂からは北国街道を眼下に押さえ、秀吉軍の諸将が布陣する中でも最も南方に位置し、後方に布陣する秀吉の本陣・木之本地蔵(浄信寺)をも守備する役目も担っている。

 北国街道木之本宿から30分ほど山道を登ると山頂の主曲輪に着く。

 砦は主曲輪を中心として、Y字型の尾根に曲輪が配置されている。登ってきた南側斜面には防御施設はないが、柴田軍と対峙している東側尾根の曲輪と本丸跡の間には竪堀を穿ち、曲輪の東には虎口を備え、虎口前面には角馬出が設けられている。
また、西側尾根の曲輪の先には、土塁による虎口と竪堀の見られる。

 現在でも木々の間から、賤ヶ岳、堂木山、明神山、行市山などが一望でき、賤ヶ岳の戦いの特徴として、山岳戦でありながらほとんどの砦から敵味方の状況が把握できる。

城 域に

南郭へ(南堀切・虎口)

虎口武者隠し

田上山砦は標高323mの田上山山頂に築かれており、山頂の主郭を中心として南郭、西郭、北郭、北外郭から成る。

主郭は山頂にあって周囲に土塁が巡り、北と西に虎口を開く。西虎口は平入で西曲輪へ続く尾根道は北側に土塁が付いている。北虎口は北郭との間に土橋が架かる堀切があり、虎口の西側の土塁がやや広く、土橋は少し東側へ回り込むように付いている。

南郭は、主郭の南に隣接して周囲に土塁が巡り、西に虎口を開く。南西隅が入隅となって横矢がかかる。

北郭は主郭と土橋で繋がり、北に虎口を開く。北虎口は角馬出で、堀切に土橋が架かり、外側に土塁を設けて馬出しとしている。北郭を出るとなだらかな広い空間が北へ続いているが、ここが外郭で100m余り北へ進むと虎口が付いている。この虎口は屏風折れの土塁の中央に開口部があり、外側にL字の土塁を設けて外桝形としている。

主郭の西虎口を出て西尾根に進むと西郭がある。西郭は南西に虎口があり、虎口の北側が西へ張り出している。その外側は緩斜面であるが、その先に土橋が架かる空堀が付いている。

主郭へ

虎口北郭への土橋北郭への土橋

歴  史

田上山砦は、天正11年(1583)4月羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いに際し、秀吉の弟羽柴秀長が構築し、1万5千人の兵を率いてこの地に布陣した。

 越前から江越国境を越え北国街道を南下しようとする柴田軍に対し、北国街道の隘路である余呉で食い止めようとする秀吉軍にとって、北国街道沿いの東野山砦・堂木山砦・神明山砦が第一防御線、岩崎山砦・大岩山砦を第二防御線、田上山砦は賤ヶ岳砦と共に最終防御線となる。

 また、田上山砦は木之本から柴田勝家と同盟結ぶ信長の三男信孝の居城・岐阜城に至る北国脇往還道、および長浜城に続く北国街道を押さえる位置にある。

 佐久間盛政の大岩山砦の襲撃に端を発した賤ヶ岳の戦いは、秀吉の“大垣大返し”と柴田軍の前田利家・利長父子の寝返りによって秀吉軍の勝利に終わった。

賤ヶ岳の戦いが終わると同時に、田上山砦は陣城としての役目を終え、人々の記憶から忘れらた。

北郭へ

西郭へ

 

主郭で記念写真!

北外郭へ

外郭に北虎口

木之本地蔵院は秀吉の本陣!

地蔵院庭園から田上山城(遠景)

秀吉

明治天皇木之本行在所

明治11年(1878年)の明治天皇北陸行幸の際に、木之本地蔵院が行在所(休憩・宿泊するための仮の御所)となっている。
滋賀県 長浜市 木之本町木之本 944

玉座

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、現地説明板(長谷川博美氏:作図・説明文)

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


鷹尾山城 近江国(甲賀・土山)

2014年04月15日 | 平山城
鮎河館・鷹尾山城・(仮称)中ノ尾山城・鮎河山城  現地見学会(南北朝の山城探索)                                                                          
 
鮎河館、★1   平地城館の址「石碑が残る」                                                                                    高尾山城★★★3 戦国期の遺構「奇妙な畝堀」                                                                                     中ノ尾城★★2  南北朝の遺構「古式の城郭」か?                                                                               鮎河山城★★★3 戦国期の遺構「横堀が見事」                                                                                  総合★★★★★★★★★9

付録【新城発見踏査に同行】見学

日 時 413() 414() 両日同内容                                                                               定 員 約20名(不定) 少雨決行                                                                                                                                                                講師 長谷川博美氏 (愛知中世城郭研究会)                                                                                                                                                内容 鮎河館、高尾山城、中ノ尾城、鮎河山城見学                                                                              集合 土山歴史民俗資料館(丘陵上駐車場/トイレ有)                                                                                          時間 10時〜16時 各自弁当水筒持参
主催 米原市文化協会 教養部 城歩会                                                                                                    Eメールwwmy29831@maia.eonet.ne.jp 長谷川氏

集合場所で事前「座講」

鮎河の城址探訪 

  近江には中世の城館跡が大変多く、約1300ヶ所といわれていますが、特に甲賀郡はそれが密集している地域で約300ヶ所もあります。

これは甲賀五十三家と呼ばれるように主家、分家、親戚などからなる同名中惣(地侍の運命共同体のようなもの)が多数存在したからです。土山町には現在判っている城館跡だけで土山城址、音羽野城址、山中城址、頓宮城址、黒川城址、鮎河城址、それに大河原氏砦址と7ヶ所もありますが、そのうち鮎河地域に3ヶ所もあります。山中城址以外はいずれも頓宮氏の同名中惣と思われます。

城といっても、近世の天守閣をもつ大きなものではなく、土塁のようなもので石垣も一部使われていたようです。

鷹(高)尾山城へ  戦国期の遺構「奇妙な畝堀」  

地蔵堂 裏山

別 名:鷹尾山の砦(鷹尾城)

所在地:甲賀市土山町鮎河 map:http://yahoo.jp/rNtgFb

遺構等:土塁、畝状空堀郡、郭・腰郭、

標 高:408m 比高差:約60m

現状:地蔵堂・墓地の裏手の山林

築城者:頓宮弥九郎

築城期:戦国期に黒川氏が改修したカ?

歴代城主:頓宮氏

区分:山城

訪城日:2014.4.13

南北朝時代に南朝に属していた頓宮弥九郎(鮎河弥九郎)が南朝軍反撃の拠点とした城です。

建武5年(1338)、頓宮弥九郎は兵を挙げ鮎河城に立て篭ったが、北朝軍の佐々木秀綱に従った山中橘六、小佐治右衛門、美濃部兵衛三郎らの軍に攻められ落城した。

鮎河城の北にある鷲尾城は当時の砦跡と伝えられる。(現地説明板より)

  近江には中世の城館跡が大変多く、約1300ヶ所以上といわれていますが、特に甲賀郡はそれが密集している地域で約300ヶ所もあります。     これは甲賀五十三家と呼ばれるように主家、分家、親戚などからなる同名中惣(地侍の運命共同体のようなもの)が多数存在したからです。土山町には現在判っている城館跡だけで土山城址、音羽野城址、山中城址、頓宮城址、黒川城址、鮎河城址、それに大河原氏砦址と7ヶ所もありますが、そのうち鮎河地域に3ヶ所もあります。山中城址以外はいずれも頓宮氏の同名中惣と思われます。

 

城といっても、近世の天守閣をもつ大きなものではなく、土塁のようなもので石垣も一部使われていたようです。

 南北朝の頃、南朝に属していた頓宮肥後弥九郎が反撃の拠点として築いた要塞跡で、ここで二度にわたり北朝側と戦いましたが、いずれも武運つたなく敗れ去った。近くにある鷹尾山にも砦があり鷹尾城とも呼ばれた。

東の切通しに下りました

鷹尾山城:長谷川博美氏の踏査図(2014.1.30)

甲賀市史7巻(甲賀の城)の概要図

県道9号沿い「鮎川小学校」から300m程山の麓が館跡の北の鷹尾山。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、長谷川博美現地見学会(説明・レジュメ)

本日も訪問、ありがとうございました

 


鮎河館 近江国(甲賀・土山)

2014年04月15日 | 館跡
鮎河館・鷹尾山城・(仮称)中ノ尾山城・鮎河山城  現地見学会(南北朝の山城探索)                                                                          
 
鮎河館、★1   平地城館の址「石碑が残る」                                                                                    高尾山城★★★3 戦国期の遺構「奇妙な畝堀」                                                                                     中ノ尾城★★2  南北朝の遺構「古式の城郭」か?                                                                               鮎河山城★★★3 戦国期の遺構「横堀が見事」                                                                                  総合★★★★★★★★★9

付録【新城発見踏査に同行】見学

日 時 413() 414() 両日同内容                                                                               定 員 約20名(不定) 少雨決行                                                                                                                                                                講師 長谷川博美氏 (愛知中世城郭研究会)                                                                                                                                                内容 鮎河館、高尾山城、中ノ尾城、鮎河山城見学                                                                              集合 土山歴史民俗資料館(丘陵上駐車場/トイレ有)                                                                                          時間 10時〜16時 各自弁当水筒持参
主催 米原市文化協会 教養部 城歩会                                                                                                    Eメールwwmy29831@maia.eonet.ne.jp 長谷川氏

集合場所で事前「座講」

鮎河館へ   

鮎河館虎口(城館の址)に石碑が残る

所在地:甲賀市土山町鮎河 map:http://yahoo.jp/c6J-_q

遺構等:土塁、碑、説明板

現状:鮎川小学校の裏手丘陵地

築城年:建武年間(1334-38)

築城者:頓宮弥九郎

歴代城主:頓宮氏

区分:居館

訪城日:2014.2.24 2014.4.13

 現地駒札説明板には【鮎河城】

 南北朝時代に南朝に属していた頓宮弥九郎(鮎河弥九郎)が南朝軍反撃の拠点とした城です。

建武5年(1338)、頓宮弥九郎は兵を挙げ鮎河城に立て篭ったが、北朝軍の佐々木秀綱に従った山中橘六、小佐治右衛門、美濃部兵衛三郎らの軍に攻められ落城した。

鮎河城の北にある鷲尾城は当時の砦跡と伝えられる。(現地説明板より)

  近江には中世の城館跡が大変多く、約1300ヶ所以上といわれていますが、特に甲賀郡はそれが密集している地域で約300ヶ所もあります。     これは甲賀五十三家と呼ばれるように主家、分家、親戚などからなる同名中惣(地侍の運命共同体のようなもの)が多数存在したからです。土山町には現在判っている城館跡だけで土山城址、音羽野城址、山中城址、頓宮城址、黒川城址、鮎河城址、それに大河原氏砦址と7ヶ所もありますが、そのうち鮎河地域に3ヶ所もあります。山中城址以外はいずれも頓宮氏の同名中惣と思われます。

  城といっても、近世の天守閣をもつ大きなものではなく、土塁のようなもので石垣も一部使われていたようです。

 鮎河の東端の山すそにあります。南北朝の頃、南朝に属していた頓宮肥後弥九郎が反撃の拠点として築いた要塞跡で、ここで二度にわたり北朝側と戦いましたが、いずれも武運つたなく敗れ去ったそうです。現在は有志の方が小公園として整備されています。

鮎河館の北にある鷹尾山にも砦があり、鷹尾城と呼ばれた。

甲賀の城より

虎口・・・行き止り(郭跡は現状、水田)   (民家の上に)大河原氏城が (民家の上に)大河原氏城が   (ウグイ川の桜の上に)黒川氏城が!

県道9号沿い「鮎川小学校」から300m程山の麓が館跡です。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました


「船岡山」古戦場なり」  近江国(八日市)

2014年04月14日 | 古戦場

市辺 阿賀神社

お城のデータ 

・住所:東近江市糠塚 map:http://yahoo.jp/0nw-LW

・形  式:古戦場   

・現  状:雑木林・公園・万葉歌植物園

・遺  構:土塁・堀・櫓台?

・戦 い:観應二年九月 ○氏頼の陣代 山内定詮 VS ●京極道譽

・目標地点:万葉歌碑・阿賀神社

・訪城日:2014.4.14

『近江蒲生郡志』(三四七頁)によりますと、

 船岡山 「船岡山は市邊村糠塚の西に在る小丘なし、観應二年九月佐々木氏頼の陣代山内定詮と京極道誉と激戦したる古戦場なり」軍事誌参照と記す。

          

歴 史

蒲生野の合戦 「天正本太平記」によれば、船岡山の麓に陣取った京極道譽は、味方の軍勢を三隊に分け、鏡山から北上してくる敵に備えたという。

第一隊はその子京極高秀を大将とした軍勢で、これには蒲生・小倉の一族をつき従わせて壊(破)塚(八日市市市辺町)に陣取らせ、六角直綱を大将びした第二隊は道合の森(八日市市三津屋町)に配置、みずらは遊軍の第三隊の指揮官となって船岡山のふもとに陣取った。

戦いは山内定詮と京極高秀の軍の衝突で始まってた。定詮は高秀軍を一挙に攻め破り、直義党の後勢で開始されたが、高秀軍の敗走を見た道譽は直綱の率いる第二隊と遊軍の第三隊をただちに戦闘に参加させるや、情勢は一転、今度は尊氏党優位にたった。百銭練磨のの道譽の指揮により、数の上においては劣勢ながら尊氏党がいったん戦いの主導権を握ったのである。しかし、高秀軍を追撃していた定詮が軍を引き返し、本隊に復帰するや数の上ではまさる直義勢が再び有利になり、定詮を先頭とする直義党の反撃によって道譽は船岡山まで撤退を余儀なくされ、ここに勝敗を帰すうは決した。

定詮の追撃ははげしく船岡山の陣所を引き払った道譽は、金柱宮(八日市市小脇町)の社前で一度は屠腹を覚悟したと「天正本太平記」は伝える。

幸い譜代の若党の決死の防戦により、道譽は窮地を脱出、小脇山のふもとを回って本拠地甲良荘(犬上群甲良町)に逃げ帰ったが、道譽の率いる尊氏党の完敗であった。

道譽の完敗とともに観音寺城にあった六角直綱・渋川直頼らの軍も、城を捨て八相山の尊氏のもとに走り、直義党は湖北八相山の敗戦、ここ湖東の蒲生野で雪辱することに成功したのである。【八日市市史より(誤記  尊氏⇒高氏「道譽」)】

 足利尊氏が開いた室町幕府の重臣として活躍したのが、佐々木京極高氏(道誉)で、その勢力は宗家である佐々木六角氏を凌ぐものがあった。

そして建武五年(1338)、道誉が近江守護職に任じられたのである。これに対して、佐々木六角氏らの抵抗があり、道誉の守護職在任は半年間で終わり、六角氏頼がふたたび近江守護職に任じられた。

  やがて、観応の擾乱が勃発すると、政治情勢は混乱を極め、進退に窮した氏頼は突如出家すると高野山に上ってしまった。
六角氏は幼い千寿丸を当主に戴き、氏頼の弟山内定詮が後見人となって擾乱に翻弄される六角氏の舵取りをした。

 擾乱は直義の死によって終息、出家していた氏頼が還俗して六角氏の当主となり、近江守護職に復帰した。以後、佐々木六角氏は安泰の時代を迎えた。

 しかし、嫡男の義信(千寿丸)が早世、京極氏より高秀の子高詮が養子に迎えられた。ところが、氏頼に男子(亀寿丸)が生まれたことで、にわかに波乱含みとなった。そのようななか、氏頼が死去、後継者問題が生じた。

 当時、幕府内部では細川氏と斯波氏の間で権力闘争が行われており、それは六角氏の家督争いにも影響、結局、高詮は実家に戻され亀寿丸(満高)が家督を継承した。しかし、満高は将軍足利義満の守護抑圧政策によって、領内統治は思うように行えず、ついに応永十七年(1410)には守護職を解任されるという憂き目を味わった。
 その後、満高は近江守護職に再任され、家督は満綱が継承した。満綱は領国支配を強化し、山門領・寺社本所領を蚕食していった。しかし、満綱の強引な所領侵略は嘉吉の土一揆の蜂起を招き、京から近江に落去という結果となった。そして、近江守護職も解任されてしまったのである。

参考資料:蒲生郡誌、Wikipedia、八日市市史

          本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


【歴史さんぽ 戦国山城探訪】のアクセス・ランキング

2014年04月13日 | 番外編

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2014.04.12(土) 1464 PV 436 IP 1843 位  / 2008273ブログ
2014.04.11(金) 1408 PV 417 IP 2089 位  / 2007944ブログ
2014.04.10(木) 981 PV 410 IP 2199 位  / 2007570ブログ
2014.04.09(水) 1118 PV 392 IP 2056 位  / 2007246ブログ
2014.04.08(火) 1050 PV 383 IP 1982 位  / 2006901ブログ
2014.04.07(月) 904 PV 255 IP 2605 位  / 2006512ブログ
2014.04.06(日) 1212 PV 394 IP 1737 位  / 2006157ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2014.04.06 ~ 2014.04.12    8137 PV    2687 IP   2057 位  / 2008273ブログ
2014.03.30 ~ 2014.04.05   12070 PV    2272 IP   2195 位  / 2005885ブログ
2014.03.23 ~ 2014.03.29     8247 PV    2663 IP   1865 位  / 2003371ブログ

トータルアクセス数


※日別の閲覧数・訪問者数とトータルアクセス数の加算タイミングにタイムラグが生じる場合があります。

トータル閲覧数(PV)    834,699 PV

トータル訪問者数(IP) 235,256  IP

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


杣中城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月12日 | 平山城

切通しカ?虎口ヵ                                                         

別名 芥川城 
・住所:甲賀市水口町杣中 map:http://yahoo.jp/3XlG_j
   旧:甲賀郡水口町
・目標地点:杣中公民館・熊野神社

・形  式:平城   
・現  状:雑木林・グランド・公園

・遺  構:土塁・堀・櫓台
・時代/人物:--期/--
・駐車位置からの主郭まで:2

 杣中城は、別名芥川城とも呼ばれているが築城年代や築城者については定かではない。

杣中城は、杣川の段丘上にに立地、杣中地区の中程にある杣中公民館辺りに築かれていた。 

城域は公民館・グランドになり、城の規模など明確ではない、公民館西側から南側にかけて土塁aが50mに渡り残り、外側に巾最大15mのb空堀(堀跡の水田も含む)の遺構がある。

更に、公民館から北東へ150m程、民家東側の竹藪に長さ約80m程、高さ3mの土塁が残るが川の堤防の可能性も。これらの残存する土塁や堀から推測すれば、杣中公民館辺りが主郭、東側の土塁までの一帯が曲輪、主郭西側の住宅地と畑地が地形から見てもここにもう一曲輪あったカ?。 

郭の背後の土塁

物見櫓カ?

郭内から

甲賀の城(着色加工)より

芥川家カ?

 芥川家は甲賀二十一家の1つ。甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を貰うほど信頼の厚かった二十一家を指し、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。 芥川家 - 一族の著名人物として芥川七郎兵衛・芥川清右衛門・芥川九郎左衛門がいる

 芥川九郎左衛門義矩 (あくたがわくろうざえもんよしのり)

 徳川幕府が成立すると、忍びとして大いに名を上げていた伊賀衆や甲賀衆は、幕府や各大名に登用された。その末裔として印象深い1人に、信州松本の戸田家に仕えた芥川九郎左衛門義矩がいる。もともと芥川家は甲賀二十一家に数えられる甲賀忍びの系譜だが、九郎左衛門義矩は享保17年(1732)に生まれ、文化7年(1810)に没している。

 芥川義矩には、不思議な伝承が数多く残されている。天明3年(1783)、隣藩のお家騒動で悪臣に監禁された家老を、身体を透明にする薬を用いて助け出した話。藩主から酒席にて忍術の披露を求められた折に、宴席の腰元たちが気付かぬうちにその腰巻きをすべて剥ぎ取ってみせた話…。

  歴史の陰で活躍してきた「忍び」の実像を具体的に描き出すのは、実はそう容易ではない。だが忍びは、虚を実に見せ、実を虚に見せて相手を翻弄する「虚実の転換」を大事にしたという。腕利きの忍びがいるという評判自体が、敵の侵入を憚らせる抑止力にもなった。世の人の度肝を抜く「忍者伝説」の数々も、その意味では極めて「忍び」らしいものといえるのかもしれない。

杣中城…侵入口(切通しor虎口?)

杣中城(遠望・・・グランドより)

・・・杣中公民館の無料駐車場を利用。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、近江の城郭、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


大河原氏城 近江国(甲賀・土山)

2014年04月09日 | 平山城

大河原氏城は巨大壮観。

大河原氏城は巨大壮観。音羽野城高度な技術の大型城館                                                                          大河原氏城と音羽野城見学会(大図面で学ぶ中世城郭)                                                                                   大河原氏城   ★★★★★5 強烈な堀切のある大型城郭                                                                                  大河原氏城出丸 ★★★3  大河原氏城出丸を発見図面化                                                                                                                                                                内 容:現地城郭学習会 図面資料A412大図A31                                                                               内 容:河原氏城大図附                                                                                               講 師:長谷川博美氏 (愛知中世城郭研究会・元滋賀県中世城郭分布現地調査員)                                                                                                            ストレッチ:ウォーミングアップ・クールダウン 田中修氏(JNFA公認インストラクター予定)宮本                                                                     集合 ※土山歴史民俗資料館(丘陵上駐車場/トイレ有)                                                                                  時間 10時〜16時 各自弁当水筒・健康保険証 持参
主催 米原市文化協会 教養部 城歩会                                                                                     Eメールwwmy29831@maia.eonet.ne.jp 長谷川

1 城址は民間監視された施錠の私有地で入山許可が必要(事前に交渉済)

 

2 大河原氏城は従来の規模の2倍の面積。甲賀屈指の巨大堀切が圧倒的です。

 

(新たに作成した迫力大図面を作成是を用いて城址を丁寧に解説)

 

3 桝形石垣や石垣築地痕あり、隆々と続く巨大な櫓台の景観には驚くばかり。

4 山岳山城ではありません、身近な里山で遺構見学を十二分に堪能します。

 

4月6日組

  A3踏査図で概要説明・・講師:長谷川氏4/6記念(祈念)写真(土山歴史民俗資料館(丘陵上駐車場/トイレ有)にて) 

4月7日組

A3踏査図で概要説明・・講師:長谷川氏

所在地:甲賀市土山町鮎河 map:http://yahoo.jp/TJBaIL
別 名 : -
築 城 :長享年間(1487~91)
初城主:大河原源太
区 分 :平山城
遺 構 :土塁・堀切・空堀・石碑・
城 域 :100m×100mか

訪城日:2014.4.7

主曲輪は東西35m、南北40mほどの広さで、南側斜面には石段の跡が認められ、ここが大手虎口か。
 主曲輪の西~北~東には土塁が築かれて、西側土塁には土塁の内法を石垣で固めたのであろうか、15~20cmほどの石が散乱している。

 また主曲輪の周囲には南側を除き、空堀を廻らせ、西,北,南に延びる尾根には堀切を入れるなど、主曲輪を取り巻く縄張りは黒川氏城と非常によく似ている。

 甲賀においては単郭方形の館城が多い中、この大河原氏城は黒川氏城と共に求心性の高い縄張りがされており、甲賀武士とは権力構造の異なる勢力が改修しているのではないかと感じた。

歴  史

大河原家・黒川家ともに、近江守護職六角氏(観音寺城主)との繋がりは深く長享・明応の乱(1487~1501)に戦功をたてた。六角氏が9代将軍足利義尚に攻められた長享の乱 「鈎の陣の戦い」に参戦しての勲功により感状を与えられた甲賀二十一家の一で両家ともに「地域連合惣」の北山九家の一です。 大河原源太が鮎川を、 黒川久内が黒川・黒滝の地を領有し以後代々子孫が世襲していますが、六角氏が衰退により甲賀五十三家も弱体化していく中、天正13年(1585)羽柴秀吉によって解体されて共に滅びます。

現地へ

桃色すみれの出迎え

平成?昭和?の横堀?城道

新発見(仮称)出丸後方から攻め込む。最初の土塁最初の石積

主郭へ

4月7日組記念(祈念)撮影

小休止・・・復習?

登城記念に・・・主郭にて

登城口の門兵石仏

甲賀の城より・・・縄張り図

長谷川氏:踏査図

長谷川氏:大河原氏城出丸を発見図面化

長谷川氏:踏査図【大河原氏城】は黒川氏城にも勝る大城郭、城構え・

大河原城(遠景)

 

参考資料:長谷川氏:現地見学会資料・説明、滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、近江の城郭、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!