城郭探訪

yamaziro

大宮神社遺構 近江国(甲賀・土山)

2014年04月08日 | 遺蹟

甲賀の城より

住 所:甲賀市土山町黒川字川西 map:http://yahoo.jp/ZRAZxX

現 状:大宮神社

遺構:土塁・空堀

区 分::平城

築城者:黒川玄蕃佐

築城時期:永禄年間(1558-70)

大宮神社は、土山町黒川のうち、川西集落の南方、田村川をのぞむ河岸台地先端部に位置している。
遺構は社地北端の民家との境界上にヘの字形に全長約35mの土塁が残っている。また社地自体も集落から一段高くなっている。しかしこの土塁は神社の結界の可能性があり、城館遺構かは疑問が残る。

大宮神社は、永禄年間(1558-70)に黒川玄蕃佐が産土神として社殿を築いたとされるが、城館としての詳細は不明。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


木内城 近江国(甲賀市・甲賀)

2014年04月08日 | 平山城

薮の中には厚みも高さもある土塁、奥の土塁の向こう空堀が良く残っているお城。

所在地滋賀県甲賀市甲賀町上野字才作 map:http://yahoo.jp/l-iq9f

遺 構曲輪、土塁、空堀

形 式平城

築城者:不明

築城年代:不明

訪城日:2014.4.6

木内城は、築城年代や築城者など詳細なことは定かでない。

現 状

 木内城は、杣川沿いの平野部に築かれた典型的な方形単郭の豪族居館だ。

 現在は、県道沿いの竹藪は整備され、目印の「城石碑」は県道から確認でき、を隠され、場所の特定が本来し易い筈が通り過ごしてしまった。

 城石碑辺りから城内への進入。東側の畔道・竹藪の北側(裏)に空堀が確認出来る。

 現在は、南側を除く三方に土塁と堀が残っているが、主郭周囲の土塁は、そこそこの高さも厚みもある見応えのある遺構であった。

甲賀の城より

北側の土塁土塁の外側の空堀

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

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黒川城 近江国(甲賀・土山)

2014年04月08日 | 丘陵城

甲賀の城 より

所在地:甲賀市土山町黒川  map:http://yahoo.jp/qK73WE

別  名: 黒川城

築  城:応仁年間(1467~69)

初城主:黒川与四郎

区  分:平山城

遺  構:空堀、土塁

城 域:80m×90m

目票地:山内小学校

訪城日:2014.4.7

 

 黒川砦(城)は市立山内小学校の向かいの丘陵地中腹に位置しており、山内小学校の駐車場に車を置いて、山道を登ること約5分で城域。
杉木立の中に曲輪があり、その周囲には30cm~50cmほどの土塁と空堀が。臨時の砦。

前は、田村川と笹路(そそろ)川に挟まれた標高340mの中腹(比差30mの丘陵砦)に、舌状尾根の地形を利用して、防御性は低い軽微な構え。後方は千谷・市場集落。

南側の麓に平策地が見えるが!。黒川氏の居館は千谷・君ケ谷・市場集落周辺には記録は無い。

拳大の小石が多く残る。(弓矢や鉄砲の代わりに、山上砦から投石の武器カ?)

 黒川城主の黒川氏は、応仁・文明年間(1467~87)に黒川与四郎が蒲生郡馬淵(近江ハ幡市)下司職と土山課役を給分として領有した。

 その後、近江国守護六角氏の配下となり、永禄11年(1568)第15代将軍足利義昭を奉じて上洛する織田信長の上洛阻止に失敗した六角義賢(承禎)の甲賀亡命に加担した。
 また、甲斐の武田信玄への応援の使者として義賢の次男中務太夫賢永と共に家臣・辻和泉を甲斐へ下らせた。

 天正13年(1585)の甲賀破儀をもって改易されたが、のち再び本領黒川のみを食封として許された。

 慶長19年(1614)大坂冬の陣には豊臣秀頼に属して参軍したために領地を失ったが、黒川氏の娘が徳川頼宣の側室となり綱教を生んだことで、幕下に列せられて黒川村を領した。後に近世徳川氏の旗本として仕え、川西集落の日蓮宗妙蓮寺には黒川氏歴代の墓所が営まれている。


  同じ甲賀市の土山・鮎河には黒川氏城(黒川氏の本拠)があり、黒川氏の城。

 

黒川城(遠望・・・小学校駐車場より)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、近江の城郭、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

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大野山本城 近江国(甲賀・土山)

2014年04月06日 | 平山城

登城口登城口の手前に駐車可

所在地:甲賀市土山町大野字山本 map:http://yahoo.jp/4B_cSq                                                                   (旧甲賀郡土山町大野】                                                                      

現  状:山林・空地・宅地

遺  構:曲輪・土塁・空堀・土橋

区  分:平城

目  標:ほかい瓦(会社)

別 名 :

築城者:大野大蔵大夫

:築城時期:室町期

有名城主:大野氏

訪城日:2014.4.6

甲賀の城より

 大野山本城は、稲川北側の河岸段丘端部を利用して築かれている。 背後は、平坦で水田となっているが、段丘の端を空堀を設けて防禦し、段丘傾斜部を削平して東・中・西上段・下段と大小4曲輪を横に並べた縄張りとなっている。

 遺構は、東の曲輪東側から西上段の曲輪まで高さ約3~5mの土塁が空堀に沿って残っている。 東の曲輪西側にも土塁が残り、この土塁は中の曲輪と共用となっていた。

      

大野山本城は、土山町大野のうち片山集落の北側、殿の城「トンノシロ」に所在する。集落の北端は自然地形が北から南にかけて大きく落ち込み、段丘状となった部分をうまく利用した縄張となっている。

城へは北側の植林地から進入すると、南奥に東西約90mを測る見事な空堀bが現れる。
土橋を渡り土塁上に立つと、南方集落側を見渡す頂部となる。この土塁aは南側で派生して城内を3区画に分けている。

曲輪ⅠⅡ内部は段丘下部に位置するため、土塁aとの高低差は3~5mを測る。
曲輪Ⅰは約20m四方で隣接する民家の裏庭のようになっている。東辺土塁の外には北端bから続く空堀を伴う。
曲輪ⅡはⅠよりも約2m低くなっており、東西約35m×南北約25mで最も広い曲輪である。現在は下草を残したグラウンド状となっていて、南辺の東端付近に土塁の一部が残る。
現在植林となっている曲輪ⅢⅣは、ともに東西約25m×南北約10mで、堀状の溝で区画され南北に配置する。緩やかな傾斜地で居住性はない。

曲輪ⅢⅣの西側は集落中央を南北に通る道路だが、坂を上りきった付近には土塁の削り残しと思われるcdがあり、さらに西方にも土塁と思われるefがあることから、かつてはすべてが繋がっていた可能性がある。ただ現況を見る限り、城は曲輪Ⅰ~Ⅳまでとするのが妥当である。

稲川を挟んで南方には大野城(大野氏邸)が所在する。

                     

 

歴 史

河岸段丘端部を利用して築かれた大野氏の本城。

大野氏は、甲賀中惣二十一家の一つ。

大野大蔵大夫をはじめ大野氏の屋敷。大野氏は主君佐々木六角氏が織田氏に滅ぼされて帰農している。

甲賀衆を記したものとして、貞享年間(1,684~7)に編纂された近江の地誌『近江淡海温故録』によると下記のように記されている。

甲賀武士は、累代本領を支配し、古風の武士の意地を立て、過奢を嫌い、質素を好み、大方小身故に地戦計りに出つ。然れども一分一並の武勇は嗜み、故に皆今の世迄相続し、家を失わず、国並みの家々とは格別の風儀なり。世に甲賀の忍の衆と云うは、釣の陣に神妙の動あり。日本国十の大軍眼前に見及び故、其以来名高く誉れを伝えたり。元来此の忍の法は、屋形の秘軍亀六の法を伝授せし故なり。其以来、弥鍛錬して伊賀甲賀衆誉多し、甲賀五十三家の目あれど、其家詳ならず伝々。


 甲賀は都に近く情報が入りやすわりには、山間部にあり、そして常に合戦に
関ってきた経験は、後の世に「甲賀者」呼ばれる、「忍者」に発展する素地を備えていたものと思われます。

<甲賀二十一家>

 山中家 伴家 美濃部家 黒川家 頓宮家 大野家 岩室家 茶川家 隠岐家 佐治家 神保家 大河原家 大原家
 和田家 上野家 高嶺家
 池田家 多喜(滝)家 鵜飼家 内貴家 服部家 

ここまでの二十一家を甲賀二十一家とされています。

 

道路の西側土塁

     

目 標:ほかい瓦三叉路に駐車可スペースあり

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


大野城 近江国(甲賀・土山)

2014年04月06日 | 居城

道路沿い西側に「大野氏邸跡」の石碑

住所 :甲賀市土山町大野字里字大屋敷  map:http://yahoo.jp/wQzz-t

別名 :大野氏邸

現在の状態 :雑木林・道路・宅地

遺構 :土塁・空堀・石碑

区  分:平城

築城者:大野大蔵大夫

築城時期::室町時代

目標点:若王寺

訪城日:2014.4.6

 西側土塁

大野城は土山町大野のうち、里集落の北西端に所在する。現在は中央を道路が分断し、北側は造成により破壊されて全貌は不明だが、道路東側の藪地内に土塁と空堀の一部が残存している。藪内はブッシュがひどく撮影もままならない状況で畑地との境からのぞきこむと、空堀bと土塁aが確認できる。

歴 史 

大野城は、室町時代に大野大蔵大夫によって築かれた。

大野大蔵大夫をはじめ大野氏の屋敷。大野氏は主君佐々木六角氏が織田氏に滅ぼされて帰農している。

大野氏は、甲賀中惣二十一家の一つ。

甲賀衆を記したものとして、貞享年間(1,684~7)に編纂された近江の地誌『近江淡海温故録』によると下記のように記されている。

甲賀武士は、累代本領を支配し、古風の武士の意地を立て、過奢を嫌い、質素を好み、大方小身故に地戦計りに出つ。然れども一分一並の武勇は嗜み、故に皆今の世迄相続し、家を失わず、国並みの家々とは格別の風儀なり。世に甲賀の忍の衆と云うは、釣の陣に神妙の動あり。日本国十の大軍眼前に見及び故、其以来名高く誉れを伝えたり。元来此の忍の法は、屋形の秘軍亀六の法を伝授せし故なり。其以来、弥鍛錬して伊賀甲賀衆誉多し、甲賀五十三家の目あれど、其家詳ならず伝々。


 甲賀は都に近く情報が入りやすわりには、山間部にあり、そして常に合戦に
関ってきた経験は、後の世に「甲賀者」呼ばれる、「忍者」に発展する素地を備えていたものと思われます。

<甲賀二十一家>

 山中家 伴家 美濃部家 黒川家 頓宮家 大野家 岩室家 茶川家 隠岐家 佐治家 神保家 大河原家 大原家
 和田家 上野家 高嶺家
 池田家 多喜(滝)家 鵜飼家 内貴家 服部家 

ここまでの二十一家を甲賀二十一家とされています

       大野城(遠景・・・若王寺より)

目標:若王寺・里公民館

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

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佐久良城 近江国(日野)

2014年04月04日 | 平山城

小倉実澄が拠った佐久良城
現地説明板の案内図

所在地:蒲生郡日野町佐久良

別 名 :下の城

築 城 :室町中期初

城主:佐久良刑部太夫

区 分 :平山城遺 構 :空堀,堀切,竪堀,土塁,池跡

城 域 :250m×160m

標高 210m     比高 30m

訪城日:2014.3.31

小倉氏が室町時代初期に築き、本拠とした佐久良城址。地元では「下の城山」と呼ばれ、応仁の乱に際して小倉氏に庇護された京都相国寺の僧横川景三の書に詳しく書き記されている。城址は八幡神社の後方の山全体で、土塁・堀切、城内庭園・石垣などが確認でき、中世城址として貴重な遺跡となっている。
城址を歩くと本丸に続く土橋の両側の深い堀切、そして本丸を囲む土塁の高さに驚かされる。土塁・堀切には石垣の跡、搦め手から北方に歩くと竪堀、北側の土塁で囲まれた道を進むとお馬洗いの池に出る。いまも水をたたえる様子から、佐久良城の重要な水の手であったことがうかがわれる。佐久良城の大手には小倉氏が勧請した八幡神社が鎮座し、また、南側すぐのところに菩提寺であった神護山仲明寺が小倉氏の名残を伝えている。

城址登り口(パンフレットあり)

滋賀県中世城郭分布調査より

歴  史

 室町時代中期に至って、小倉家は庶子家を分出、宗家は蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良城を築いて本城とした。さらに、本城のすぐ東にある長寸山頂上に長寸城、奥師に四谷城、鳥居平に鳥居平城等を築き、それぞれ家臣を入れて守らせた。

 さて、近江小倉氏においてもっとも著名な人物が、前述した小倉左近将監実澄である。実澄は三河守実方の嫡男で、蒲生秀綱の姉を母に生まれ、蒲生氏を継ぎ中興の祖といわれる貞秀(智閑)と同時代を生きた。また、実澄の室は蒲生秀綱の女で、貞秀の室とは姉妹という関係であった。
 二人が生きた時代は応仁・文明の乱の真只中であり、実澄と貞秀は義兄弟ということもあり協調して乱世に身を処した。横川景三の題した『小倉実澄寿像賛』によれば、実澄は多賀高忠と行動をともにして、犬上郡八尾城に出陣したとあるように、応仁の乱において京極方=東軍に属して活躍した。
 実澄は宋学を好み、禅に入り、詩歌に長じる一方、射術を多賀高忠に学び、世の人から文武兼備の武将と讃えられ、応仁・文明の乱において焼け出された相国寺などの禅僧を近江に招いて庇護を与えた。そして、文明元年(1467)、永源寺畔の越渓に識廬庵を作って相国寺の横川景三らを招き、翌二年、横川は識廬庵の記を著している。かくして、戦乱のなかにあって実澄は、おりをみては佐久良城から識廬庵を訪ねて横川らと詩酒交歓し、禅を談じたと伝えられている。


 系図によれば、実澄は永正二年(1505)三月に死去している。そのあとは実重が継ぎ、実重も蒲生氏から室を迎えている。実重のあとを継いだ実光は「さねはる」と読み、弘治三年(1557)に伊勢征伐に出陣した実春と同一人物と思われる。実光には男子がなかったため、蒲生定秀の三男実隆が迎えられて小倉氏の家督を継いだ。

湧水が豊富な「馬洗い」と名付けられた池

【佐久良城見学ルート図 GPS計測】 総距離:1.2㎞  総時間:1時間 

139668528331733485226近江ノ国_米ちゃんより

参考資料:長谷川氏:現地見学会資料・説明、滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、蒲生郡誌

 

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長寸(ながす)城 近江国(日野)

2014年04月02日 | 平山城

お城の歴史
所在地:蒲生郡日野町佐久良   map:http://yahoo.jp/VFi-UQ
別 名:上の城山
築城期:鎌倉時代初頭 
初城主:小倉三河守実澄
区 分:山城 
遺 構:土塁,石積み,竪堀
標 高:269m    比高差:約150m

目標地:桜谷小学校

駐車場:桜谷小学校

訪城日:2014.3.31

お城の歴史

桜谷小学校の校舎裏手に山道があり、そこから登ります。

尾根まで登る間、大きな沢とも竪堀とも思える箇所に沿って登り、尾根に到達しましたら、左手方向に尾根伝いに進みますと城址に至ります。

視界の利かない山道を歩いて主郭跡に到達すると、ぽっかりと空が見えると感じます。

 北側の櫓台跡付近にある石垣、他の小倉氏の城に見られるものではありませんし、戦国時代改修か疑問。

櫓台は古墳を利用したもの、この石積みが城にも利用されたんでしょう。 また、北側斜面・西側斜面には畝状竪堀・竪土塁がある。

 

 

 長寸城は日野町佐久良の桜小学校の背後の小高い丘に築城されている。桜谷小学校裏のコンクリートの階段から登ると、すぐに山道に変わり、右手に大きな竪堀が山道と平行して走り、竪堀と山道との間には曲輪跡らしき削平地がいくつか見られる。

 20分程度で山頂に着く、ここが主曲輪で入口には土塁の虎口が設けられている。
また虎口を右手のなだらかな斜面に竪堀が1本掘られ、、緩斜面を伝って直接本丸跡へ取り付く敵が意識されている。

 主曲輪は虎口右手の土塁を最高として、からなだらかに傾斜しており、一段低くなった曲輪奥に石積みが残っている。
 石積みは崩れ完全な形ではないが、長さ10m余り、高さは1m程度であろうか。

 なお、麓の仲明寺は小倉氏の菩提寺で、小倉実澄・実重・実隆三代の墓だと伝えられる宝篋印塔がある。  

お城の歴史

桜谷を領した小倉氏の佐久良城(下の城山)に対して詰の城として別名「上の城山」と呼ばれます。築城年代・築城者は不明ですが至福年間(1384~1386年)頃の築城。

 佐久良城は、小倉氏の居館本城であり、長寸城を上の城山・詰め城。

 永禄7年3月九居瀬(現永源寺町)に居を構える小倉右近太夫と、佐久良城を本拠とする小倉実隆(実澄の孫・実重が早世したため、蒲生定秀の三男にして賢秀の弟を養子)の間で和南で戦いが始まり、実隆が戦死。この戦いで永源寺も焼失した。

 奥津保(愛知郡・蒲生郡辺り)の城を手にした小倉右近太夫を撃つため、兵を進めた蒲生氏は小倉氏との戦いに勝利し、以後この一帯を領内に編入していくことになる。
同時に佐久良城,長寸城を初めとする小倉氏の城郭は廃城となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

139648772075256002227近江ノ国_米ちゃん

寸城見学ルート図 GPS計測】
総距離:1.45km  総時間:1時間10分

 

下山の小学校手前の【獣害柵】・・・奇岩!

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、蒲生郡志 他

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鳥居平(とりひら)城 近江国(日野)

2014年04月01日 | 平山城

鳥居平城★★★★長大な城。現地城郭学習会  図面資料A4のP12

講師:長谷川博美氏(元滋賀県中世城郭分布調査員、蒲生郡、神崎郡、城郭調査員)

所在地:蒲生郡日野町鳥居平  map:http://yahoo.jp/dPTXcm
別 名 :蒲生氏(城守 蒲生氏の臣吉倉氏(寺倉氏?)
築 城 :室町時代
初城主:寺倉氏
区 分 :平山城 
遺 構 :土塁・空堀・竪堀・堀切
訪城日:2014.3.31                                                                                        標高:220m~230m 比高20~30m                                                                                                面 積 : 800m×最大150m

駐車:鳥居平集落の城山登り口駐車場を利用

集落の鳥居平

鳥居平城は比高20~30mの急峻な丘陵地に築かれた平山城(丘陵城)であるが、大規模なと普請(縄張り図=滋賀県中世城郭分布調査)、および遺構の保存状態では、近江の城郭の中でも屈指のものである。
 城郭は小さな丘陵地をめいっぱいに使い、東西の長さは800mに及び、山中の遺構は400~500年経過しているにもかかわらず、その縄張りが中途半端でないことが伺いしれる。

 尾根上に一辺が20m~40mの方形の曲輪を東西一列に配し、曲輪と曲輪の間には山肌を垂直に切り落とした箱堀状の堀切、あるいは薬研堀を入れ、バリエーションに富んでいる上、土塁で形成した虎口を巧みに使い、堀切に導き入れるなど技巧的な面も窺える。

 なお、鳥居平城からは北約1.5kmの長寸城、北東約1.5kmの佐久良城、東約700mに四ツ谷城(昭和40年代の牧野造成で貴重な城郭遺構が消滅)など、小倉氏の城砦を遠望することができる。

歴  史
 奥津保の鳥居平城は大字鳥居平の東に連なる丘陵尾根上にあって、戦国期に築かれた山城の遺構が東西800mにわたって、ほぼ原形のままで残されている。

 鳥居平城に関しての文献史料は少なく、史跡全体は中世の築城様式特有の土塁をめぐらす曲輪が十ヶ所以上あり、峻険な堀切が数ヶ所に設けられ、広大な城であったことが窺える。

 この城の城主は寺倉氏(寺倉氏は蒲生氏の支流)であったと伝えられているが、歴史的な経過などは不明である。
 しかし、桜谷を支配した清和源氏の末裔・小倉氏が、鳥居平城の築城に関わっていたであろうとが推察される。
 なお、小倉氏は承暦年代(1077~1080)に小倉景実が愛知郡小椋庄に小倉城を築いたのを初めとして、愛知・神崎・蒲生三郡の東部に勢力を伸ばした。

・・・・滋賀県蒲生郡志(大正十一年五月) 三八一頁 「鳥居平城跡」

東桜谷村大字鳥居平の山上に在り土人城山を称す吉倉氏の城…伝承がある。後略(講師:長谷川氏解釈、「吉倉氏=寺倉氏の誤記カ」)

【鳥居平城見学ルート図 GPS計測】 総距離:1.9km   総時間:2時間

139643534854477180225近江ノ国_米ちゃんより

2の郭の土塁(切岸)は比差10m、幅20越える堀切

公園化された、2の郭の西側には土塁が!

土塁の向こうは比差10m、幅20越える堀切mを。次の3の郭へと続く。

鳥居平城の場合、主要な曲輪の独立性が保たれているのが特徴といえる。

先回 公園化後城郭 探訪 【鳥居平城 近江国】 2013.4.1 

長寸城下 桜谷小学校から(遠景)

佐久良城から(遠景) 

滋賀県中世城郭分布調査より

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、蒲生郡志、淡海の城 他

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