城郭探訪

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藤林長門守城   伊賀国(阿山)

2015年05月12日 | 丘陵城

伊賀上忍三家の一つ藤林氏の居城

 

お城のデータ

所在地: 伊賀市(旧:阿山郡)東湯船字辻ノ内    map:http://yahoo.jp/kK0SVi 

現 状:林

区 分:丘陵城

遺  構 :曲輪、土塁、空堀

築城期:室町期

築城者:藤林長門守守

城 主:藤林長門守

標 高:250m   比高差:20m

目標地: 正覚寺から、県道51号(蛇行登り道)を東へ約500m

駐車場: 城址前の空地

訪城日:2015.5.8

 


お城の概要

 伊賀上忍三家の一つ、伊賀忍者の頭領藤林長門守の居城だ。 

独立丘の頂上部を削平して主郭とし、空堀を隔てて東側に斜面を切り込んだ二の曲輪があり、この曲輪より一段高い所に物見台的な小曲輪を伴う。 また、南側の民家敷地となっているところが三の曲輪となっている。 この三の曲輪が面積も一番広く、藤林氏の居館が置かれ、背後の主郭・二の曲輪が詰城であったと思われる。 曲輪の遺構は、主郭東側に土塁が、二の曲輪北側には切込土塁が良く残っていた。

お城の歴史

 藤林長門守城は、室町時代に藤林氏によって築かれた。 藤林氏は、伊賀上忍三家(藤林長門守、服部半蔵、百地丹波)の一つで、伊賀北部湯船郷を支配していた。
 藤林長門守について詳細なことが伝わっていないが、武田信玄の軍師山本勘助に忍術を伝授したとも云われている。 また、江戸時代に忍術秘伝書「万川集海」の編者藤林保武は長門守の子孫。 

藤林長門守

藤林 長門守、生没年不詳)は、戦国時代の忍者。伊賀の上忍三家の一つ藤林氏の当主であり、伊賀北部で甲賀に境を接する湯舟郷を支配していた。甲賀側にも多くの配下がおり、伊賀甲賀双方に影響力を持っていたとされる。服部氏の服部半蔵、百地氏の百地丹波と並び伊賀の三大上忍と呼ばれる。本名は正保、保豊など曖昧。

伊賀流の頭目という立場でありながら記録はほとんど残っておらず、その生涯は謎に包まれている。

 第二次天正伊賀の乱では甲賀の多羅尾氏ともに、織田氏の手引きをして生き残ったという説もあれば、織田の軍勢と最後まで戦い抜いた百地丹波と同一人物とする説もある。

『藤林家由緒書』には今川義元に雇われていた際、武田信玄の軍師山本勘助に忍術を教えたという記録が残っている。

長門守の子孫、藤林佐武次保武が今に忍者の姿を伝える貴重な資料と呼ばれる『万川集海』を著している。

また現在、湯船郷には藤林姓が見られることから、これらの氏族は子孫の可能性が高い。

参考資料:伊賀の中世城館・三重の城・Wikipedia

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藤山摂津守城  伊賀国(阿山)

2015年05月12日 | 丘陵城

伊賀 藤山摂津守城
 

お城のデータ

所在地: 伊賀市(旧:阿山郡)東湯船字城ノ谷      map;http://yahoo.jp/A4pTys

現 状:山林

区 分:丘陵城

遺 構:曲輪・土塁・井戸

築城期:鎌倉期

築城者:藤山摂津守

駐車場:県道51号線、東湯舟・・道路空スペース

目標点:東覚寺

駐車場:農道に路上駐車

訪城日:2015.5.8

お城の概要

 藤山摂津守城は、城ノ谷地区の東端に位置し、城の東側の独立丘には藤林長門守城が、また西隣の民家は、城ノ谷館があったところだ。

地山を削り込んだ土塁が残っているお城。 

伊賀中世城館調査会の資料より

藤林長門守城の西側に隣接して築かれている。東側の一方にのみ土塁が残存していて、土塁周囲には削平地が残っている。

 城の縄張りは、後世の手が幾分入った感じがするが、台地東端に南北に長い主郭があり、主郭の西側に地山を削り高さ約4m、長さ30m程の土塁が残っている。 この土塁西側にも削平地がある。 また、主郭南側の民家敷地も城域であろうかと思われた。

井戸跡

お城の歴史

 藤山摂津守城は、築城年代は定かでないが藤山氏によって築かれた。 天正伊賀の乱では、藤山摂津守は、下友田の雨乞山城へ籠もって戦った。

参考資料:伊賀の中世城館・三重の城・Wikipedia

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小父母(こいも)山城 近江国(大津 伊香立途中)

2015年05月11日 | 丘陵城

 

お城のデータ

所在地:大津市伊香立途中町     map:http://yahoo.jp/3FvqRF

区 分:山城

現 状:山林

築城期:

築城者:中原氏

城 主:中原包高

目標地:伊香立クリーンセンターの入り口

駐車場:NTT中継所付近

訪城日:2015.3.15

自動代替テキストはありません。小字猿喰(さるばみ)の丸山(城山)。

 

お城の概要

伊香立クリーンセンターの入り口付近のNTT中継所付近一帯

また、小字猿喰(さるばみ)付近にあったともいわれる丸山(城山)の位置する。

還来神社(伊香立途中町518)の南西の方にある山に、下司中原包高の居城の跡があったと伝えてられています。

尚、下の石垣は近世土留め石垣です。。。

 

お城の歴史

この城は、下司中原包高の居城。

還来(もどりぎ)神社の末社に、包高(かねたか)の霊が祀られている。

還来(もどりぎ)神社 (由緒:パンフレットより)
御祭神・藤原旅子は第五十代・桓武天皇の皇妃にして、第五十三代・淳和天皇の生母であり、太政大臣・藤原百川の女である。

往昔、此の龍華の荘(大津市伊香立途中町、上龍華町、下龍華町)は藤原氏の食邑地にして、当時其の邸宅あり(大津市栗原地先)旅子ここに生まる。長じて比良の南麓、最勝寺の開祖、静安に随侍し帰依す。土俗称して蓮華婦人という。

静安勅を奉じ、しばしば宮中に参候して、佛名会、灌佛会等を行う。是により才色兼備旅子、桓武天皇に召し出され、第五十三代淳和天皇を生み奉る。旅子甚だしく寵愛深かりしが、京都西院に隠棲され、延暦七年(西暦七八八年)五月十八日病を得て逝去さる。

病重篤と成りし時『我が出生の地、比良の南麓に梛の大樹有り、その下に葬る可し』と遺命されし故、此処に神霊として祭祀さる。(鳥居真正面の古木が初代の梛の木)

平治の乱(西暦一一五九年)起こりし時、戦に敗れし源義朝の一行は八瀬大原街道を敗走、ようやくにして此の還来神社社頭に着き、白羽鳴鏑の矢を献じ武運長久を祈願する。此の一行に有りし源義朝、落伍し途中の山に迷い乍らも、やがて還来神社に到着、源氏の再興を祈願し、東国へと走る。後年、頼朝源氏の頭領として君臨せし時、此の還来神社大明神を忘れ難く神田を寄進す。

故郷に還り来たれるとの此の神社の由緒に鑑み、その後日清、日露の戦いに参戦する人、此の社に参拝をなし、無事帰還を祈願さる。太平洋戦争に至るや、参拝者引きも切らずやとかや、又源頼朝白羽の矢と共に、馬に付けられし鈴をも奉納されし故事を以て、祈願者大小の鈴を奉納さる。何事も、必ず無事還れると言う御神徳に鑑み、戦い終わりし今日も、海外旅行、海外出張、旅行、交通安全、病気平癒、健康回復、又尋ね人等の帰還祈願に参拝者が絶えない。

参考資料:伊香立イラストまっぷ・還来(もどりぎ)神社の由緒・滋賀県中世城郭分布調査・大津のかんきょう宝箱

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彦根城外堀の土塁見つかる 市内唯一・・・・(滋賀彦根新聞2015.5.20)

2015年05月09日 | 平城

彦根城外堀の土塁見つかる 市内唯一・・・・(滋賀彦根新聞2015.5.20)

 彦根市中央町に残る彦根城の外堀の発掘調査が行われており、江戸時代と見られる土塁が見つかった。23日午後1時半~現地説明会がある。
 彦根城の外堀は彦根城の防御施設として、築城後の元和(げんな)元年(1615)以降に芹川(当時は善利川)の支流を使って彦根藩単独で整備が始まり、中堀の整備を終えた同8年以降に完成。
旧松原内湖から彦根城を囲み同内湖に戻る総延長約3・4㌔の長さで、堀の城内側には土塁が築かれた。
外堀沿いには切通(きりとおし)口、油懸口、高宮口、池洲口、中薮口、長曽根口、松原口に門が設けられ、通行人の監視が行われていた。
また外堀近くには寺院が点在していて、戦時には彦根城を防御する軍事拠点として使われる予定だったとされる。
 
 
 外堀はマラリア対策として昭和20年代後半までに埋められ、土塁が現存するのは中央町のみ。堀を埋める際に市道を除く部分に土塁が使われた。中央町のみ残っているのは、旧外堀が近くの銭湯(山の湯)の敷地内の池として活用されたため、その場所のみ土塁が使われずに残ったという。
 
 中央町のほか、土塁の基底部分が長曽根口や蓮華寺(中央町)裏手、圓常寺(城町)の竹薮に残っている。
 
中央町の土塁の大きさは、高さが城内側で5・5㍍、城外側で6㍍以上、南北の幅が23㍍、東西の幅が底辺18㍍・上部4㍍の台形型。防御面から城内側と比べて城外側の斜面が急になっている。
 市教委文化財課は昨年3月末までに測量調査を終え、4月16日から土塁の上に堆積した腐葉土の除去作業をしている。
 
問い合わせは文化財課☎0749(26)5833
 

滋賀・彦根城外堀の土塁確認 23メートル原形とどめる

現存する彦根城外堀の土塁。右上から左奥に向かって23メートルが原形をとどめていることが確認された。左のテントは堀があった場所(彦根市中央町)京都新聞

 滋賀県彦根市中央町の彦根城外堀跡で現地調査を進めている彦根市教委は20日までに、外堀の土塁が23メートルにわたり原形をとどめていることを確認した。市教委文化財課は「城の外堀の土塁がそのまま残る例は全国的にも珍しい」としている。

 外堀は1615(元和元)年の彦根城第2期工事で建設され、総延長は3・4キロあった。戦後に、蚊の発生を抑え、マラリアの流行を防ぐ目的で埋められた。埋め立ては堀の内側(城郭側)を囲んでいた土塁の土砂を利用したため、土塁はほぼ姿を消したとされていた。

 

今回調査対象となったのは、銭湯「山の湯」の敷地内で、庭園築山として長年使われていた。台形の丘に見えることから地元では「山」と呼ばれており、外堀の土塁であったことは市内でもほとんど知られていなかった。

 市教委は4月から調査を実施。外堀の土塁の高さは内側が5・5メートル、外側は6~7メートル。台形の上部幅は4メートル、基底幅は18メートルあることも確認した。堀の幅は約16メートルで、文書史料の記述や絵図とも一致している、という。市教委の下高大輔主任は「断面から9層になっていることも確認でき、外堀の構造を知る上で貴重な遺構だ」と話す。

 市教委は今後、外堀の文化的価値を証明し、どのような保存方法があるか検討する方針。

山の湯 〒522-0063 滋賀県彦根市中央町7−33

問い合わせは市文化財課TEL0749(26)5833。

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井口氏城  近江国(甲賀・上馬杉)

2015年05月09日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地 :甲賀市(旧:甲賀郡)甲南町上馬杉字西出 map:http://yahoo.jp/4riuvv

区 分:丘陵城

現 状:山林

築城年 :

築城者:井口氏

遺 構:土塁、堀切、竪堀、櫓台、虎口

標 高:220m    比高:20m

目標地:上馬杉の油日神社 

駐車場:路上駐車

訪城日:2015.5.8

県道脇の空スペース駐車、城址の北側麓を50m進む

 張り出した木の下から、城道ある

お城の概要

井口氏城・・・・は、甲南町上馬杉集落の北西端に位置し、南西にのびる尾根先端部を削平して土塁を残し、南西と北端の桝型虎口(開口部)がある。構造は、甲賀に一般的な四囲に土塁がめぐる単郭方形であるが、特異なのが北東面の土塁が方形土壇状を呈し、その天端が南東側を除き「コ」の字状に土塁が付いた小郭があるが、一辺が2mにも満たない狭い土塁の囲いの烽火台となっていることである

 背後の丘陵続きは鋭い堀切で遮断し、さらに30m程奥にもう一条の堀切を設けている。開口部は、南西面中央と北西隅にあり、虎口とされる。なお、南西虎口の外側は大きく掘削され、麓への通路は失われている。

この城は、規模は小さいものの遺構に鋭さが残っており、見応えがある。

虎口

主郭上部狼煙台(動画を撮った為)の写真はこれだけ・・・。

主郭に背後大堀切

お城の歴史

在地土豪の馬杉氏に関係する城か。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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栢ノ木(かやのき)城 近江国(甲賀・上馬杉)

2015年05月09日 | 丘陵城

伊賀国の藤林長門守城の支城

主郭は方形で土塁で囲う 

お城のデータ

所在地 : 甲賀市(旧:甲賀郡)甲南町上馬杉字栢ノ木    map:http://yahoo.jp/4_-2SC

築城年:室町期

築城者:伊賀国・藤林長門守

区 分:丘陵城

遺  構:土塁・堀切・虎口・堀(池)

城 主:伊賀国・藤林長門守

標 高:265m   比高差:20m

目標地:伊賀・阿山 正覚寺・東湯船コミニュケーションセンター

駐車場:農道

訪城日:2015.5.8

農道を東に進み、突き当りを北へ獣害フェンスから、栢ノ木城(フェンス内は作付け放棄地)のあぜ道を登り口まで

お城の概要

栢ノ木城・・・・は、上馬杉の南東端に所在し、近江と伊賀の境で、300m東は伊賀の阿山の藤林長門守城。

甲賀・伊賀で一般的な構造をした城で、栢ノ木の小盆地の東側に南西に張出した尾根の先端に築かれ、同盆地を抑える役割を担っていたと推測されている。

 構造は、先端の頂部に四方を土塁を残し掘り込んだ主郭を置き、北西にのびる支尾根に二段の段郭を付帯させている。

主郭内側に櫓台状の土塁を築き北東の尾根続きは堀切aで遮断し、防衛ラインとしている。北東下に曲郭1・2を配置。

北側は、城下は堀(池)、南側は切岸状である。

藤林長門守城の出城・支城の感じである

主郭動画 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074?fref=photo

堀(池)

駐車位置から遠望

道案内・

栢ノ木城・・・・甲賀市高嶺から、三重県に入り、県道51号線の最初の右折路を西に登りの農道へ左折し、50m程入ると広々した農地が広がっている。その先30m程行き駐車する。北北東に60m程の丘陵(比高20m)先端部が城跡である。

歴 史

栢ノ木城・・・・は、構えから伊賀国の藤林長門守城の支城と考えられているが、詳細は不明である。
藤林氏は伊賀の上忍であったようです。藤山氏、服部氏は土豪であり、共に天正九年(1581年)の天正伊賀の乱では雨乞山に立て篭もったようです。

藤林長門守城碑」前から遠望

藤林 長門守 (ふじばやし ながとのかみ、生没年不詳)は、戦国時代の忍者。

 伊賀の上忍三家の一つ藤林氏の当主であり、伊賀北部で甲賀に境を接する湯舟郷を支配していた。

 甲賀側にも多くの配下がおり、伊賀甲賀双方に影響力を持っていたとされる。服部氏の服部半蔵、百地氏の百地丹波と並び伊賀の三大上忍と呼ばれる。本名は正保、保豊など曖昧。

 伊賀流の頭目という立場でありながら記録はほとんど残っておらず、その生涯は謎に包まれている。第二次天正伊賀の乱では甲賀の多羅尾氏ともに、織田氏の手引きをして生き残ったという説もあれば、織田の軍勢と最後まで戦い抜いた百地丹波と同一人物とする説もある。『藤林家由緒書』には今川義元に雇われていた際、武田信玄の軍師山本勘助に忍術を教えたという記録が残っている。

長門守の子孫、藤林佐武次保武が今に忍者の姿を伝える貴重な資料と呼ばれる『万川集海』を著している。

また現在、湯船郷には藤林姓が見られることから、これらの氏族は子孫の可能性が高い。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、Wikipedia

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梅垣城  近江国(甲賀)

2015年05月08日 | 丘陵城

滋賀県教育委員会の石碑と説明板(城址の東側)

お城のデータ

所在地 :甲賀市(旧:甲賀郡)甲賀町滝字中出   map:http://yahoo.jp/iiff4r

 区 分:丘陵城

築城年:室町期

築城者:多喜勘八俊兼

遺 構 :土塁、堀切、櫓台、帯郭、虎口

標 高:210m 比高差:10m

目標地:中出組集会所

駐車場:説明板前空スペースhttp://yahoo.jp/jk5Kob

訪城日:2015.5.8

土塁に囲まれた曲郭はササユリ畑様だ!

ササユリ!

梅垣城・・・・は、甲賀町滝のうち中出集落の南方の丘陵上に位置している。

城は、北東にのびる丘陵先端部を削り込んで築かれている。四周は分厚く高い土塁で囲繞され、30m四方の郭面を確保している。土塁天端の幅は4m程で、南西角はさらに高い土壇となり、櫓台と見られている。

虎口は北東隅の北側に開口する平入り虎口である。虎口外は、2、3段の平坦地が広がるが近世開削されて城域は不明だが、道路沿いに堀(池)が残存する。

丘陵続きの南側は自然の深い鞍部となり、堀切の役割を果たしている。その鞍部と南面土塁の間に一部に土塁を伴う帯郭が付帯している。

地元でササユリを栽培されており、踏み荒らさないよう注意を。

虎口を入ると右側の土塁上に塹壕(武者隠し)が残存

お城の歴史

梅垣城・・・・は、室町時代に多喜勘八俊兼によって築かれたと云われるが、詳細は不明である。 

多喜氏によって築かれたと云われる。多喜城・ 多喜北城・多喜南城・梅垣城・青木城(西・東)を多喜城群、同名中惣といい、多喜城が本城とされる。 多喜氏は大伴姓富永氏の一族で伴家継を祖とする。

<甲賀二十一家>の一つ

 山中家 伴家 美濃部家 黒川家 頓宮家 大野家 岩室家 茶川家 隠岐家 佐治家 神保家 大河原家 大原家 和田家 上野家 高嶺家 池田家 多喜(滝)家 鵜飼家 内貴家 服部家 

多喜俊兼は長享の乱(1487年)で武勇をあげ、叔父の由旭は油日神社の再建運動の指揮をとった人物という。

梅垣城(遠望)・・・多喜北城より北西200m

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、Wikipedia

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多喜北城 近江国(甲賀)

2015年05月08日 | 丘陵城

主郭に、後世の「炭窯」が残る城

滋賀県城郭分布調査報告10(平成4年)には、確認さていない。

甲賀市史7巻で多喜北城は「多喜城に変更され」、新たに200m南西に「多喜北城」。

登城口に滋賀県教育員会の

主郭虎口へ

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧:甲賀郡)甲賀町滝字滝迫    map:http://yahoo.jp/AXtXuW

区 分:丘陵城

現 状:山林

築城年:鎌倉中期(1280年)頃

築城者:多喜彦太郎家継

遺 構 :土塁、堀切、竪堀、櫓台、虎口

標 高:230m    比高:30m

目標地:中出組集会所 

駐車場:多喜北城への農道http://yahoo.jp/k0r7rh

訪城日:2015.5.8

 http://yahoo.jp/k0r7rh獣害フェンスを入り30m先倒木を右に登り口

主郭は方形土塁で囲う 

主郭の北側虎口 解りにくいが炭窯

お城の概要

多喜北城・・・・は、甲賀町滝の南方、多喜城の南西200m・梅垣城の南東200mにあり、丘陵から北に張出す尾根先端部に築かれている。

南東に続く尾根筋を主郭から70m程離れた所の小さな丘を越えた鞍部に堀切を設け遮断しているが、堀切から主郭南東隅までの尾根筋はほぼ自然地形で、主郭南東隅を占める丘を土塁と一体化させ一段高い東西7m、南北4mの平場を持つ櫓台とし、また、南西隅から竪堀を落として、背後への備えとしている。

主郭は、東西25m、南北20m程で四周に土塁がめぐり、東と南面が分厚く高くなっている。

北面の東端に虎口が開口しており、20m下方の尾根先端へと通路を下ると東西25m、南北20m程の腰郭に至る。

腰郭の中央部には、東西で段差があり、二段築成となっている。山麓へは腰郭の北東隅から南東へと下っていく。

歴 史

多喜北城・・・・の城主は、多喜氏と伝わるが、詳細は不明である。

鎌倉中期(1280年)頃、多喜彦太郎家継が築城したといわれる。家継が多喜氏の祖で、多喜氏は伴四党(大原氏・上野氏・伴氏・多喜氏)の一つといわれる。

多喜氏は、伴四党(大原、上野、伴、多喜)とともに、鎌倉-室町時代に甲賀東部に勢力を持った大伴姓富永一族で、伴家継(多喜彦太郎)が祖とされる。

多喜勘八俊兼は、室町幕府による六角征伐である長享の乱(1487)で六角方として戦功をあげ、甲賀五十三家の一家に数えられる家である。

多喜家一族の著名な人物として、山岡道阿弥や中村一氏(水口岡山城初代城主)などの大名がいる。

甲賀市甲賀町滝には、弘安7年(1284)に多喜彦太郎家継によって築かれたと伝わる多喜城には、五つの支城(多喜北城、多喜南城、梅垣城、青木城(東城・西城))があり、多喜城が戦国時代の本城と云われている。

<甲賀二十一家>の一つ

 山中家 伴家 美濃部家 黒川家 頓宮家 大野家 岩室家 茶川家 隠岐家 佐治家 神保家 大河原家 大原家 和田家 上野家 高嶺家 池田家 多喜(滝)家 鵜飼家 内貴家 服部家 

多喜俊兼は長享の乱(1487年)で武勇をあげ、叔父の由旭は油日神社の再建運動の指揮をとった人物という。

滋賀県城郭分布調査報告10(平成4年)には、確認さていない。

    甲賀市史7巻で「多喜北城は多喜城に変更」、新たに南西200mに「多喜北城」。

多喜北城(梅垣城・・東200m遠望) 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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馬杉北城  近江国(甲賀・上馬杉)

2015年05月07日 | 丘陵城

 

お城のデータ

所在地: 甲賀市(旧:甲賀郡)甲南町上馬杉字岡ノ下、北谷、下馬杉字出雲   map:http://yahoo.jp/kw9yqT

区 分:丘城

遺 構:土塁、堀切、虎口

築城期:室町期

築城者:馬杉丹後守

廃 城:織豊期(元亀年間同氏の衰亡と共に遂に廃墟となる)

城 主:馬杉丹後守

標 高:240m   比高差:30m

目標地:油日神社・誓蓮寺・上馬杉草ノ根ハウス

駐車場:上馬杉草ノ根ハウス

訪城日:2015.5.5

林道(参道)を入ると、獣害ヘンスを開けて、馬杉中城東側の横下を通って、太子堂まで簡単に入ることができる。

お城の概要

馬杉北城・・・・は、甲南町上馬杉集落の北側に広がる丘陵地帯の最高所に立地している。上馬杉に立地する諸城のうち当城だけが集落に面しない、奥地に位置している。現在は、油日神社の境外社の太子社が主郭に祀られている。

 主郭は、東西約20m、南北約15mの北隅が凹んだ円形に近い形で、東側には南に回り込むスロープが付帯し、南側一段下の半円形の腰郭に繋がっている。

 南腰郭の西隅からは、北西へ斜めに下り、鋭角に南に折れ城外に通じる通路が残る。鋭角に折れずに進むと西側の土塁囲みの嘴状の腰郭へ通じている。
頂部から四方にのびる尾根には、東側と南側に堀切、北側は南北に長い三角形状の郭の切岸、西は二重堀切で城域を区画している。

太子社が祀られ頂部は、当城の中心部でもあり、部分的に改変を受けていると思われる。

主郭に大師堂

歴 史

詳細不明であるが、在地土豪の馬杉氏に関係する城か。

『甲賀郡志』に「六角氏白旗隊馬杉丹後守の築く所にして、元亀年間同氏の衰亡と共に遂に廃墟となる。」と記されている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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岡之下城  近江国(甲賀・上馬杉)

2015年05月07日 | 丘陵城

主郭と曲郭2の間の堀切

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧:甲賀郡)甲南町上馬杉字岡ノ下   map:http://yahoo.jp/N5jqfx

現 状:山林

区 分:丘城

遺  構 : 土塁、堀切、虎口

築城期:室町期

築城者:馬杉丹後守

廃 城:織豊期(元亀年間同氏の衰亡と共に遂に廃墟となる)

城 主:馬杉丹後守

標 高:240m   比高差:30m

目標地:油日神社・誓蓮寺・上馬杉草ノ根ハウス

駐車場:上馬杉草ノ根ハウス

訪城日:2015.5.5

お城の概要

岡之下城・・・・は、甲南町上馬杉集落の北側に迫る丘陵先端部に位置し、岡ノ下池を挟み東側には染田砦が、狭い谷を挟んで西側には馬杉中城が立地している。

 馬杉中城の西側の尾根裾には油日神社が鎮座し、さらに西側の尾根先には井口氏城が所在しており、上馬杉集落の北側すべての尾根先に城郭などが築かれている。これらの諸城は、村の地理に応じて役割を分担し、機能したと見られている。

 岡之下城の構造は、二本の浅い堀切で区画された南北に連なる三つの郭と帯郭からなっている。北側頂部に置かれた南北約20m、東西約15mの最も広い郭が主郭と見られ、西面を除く三方に低土塁がめぐり、西面中央には虎口の凹みも残る。主郭の北面土塁の外側は自然地形の斜面、鞍部を経て丘陵に続いている。主郭の南側は、高い土塁の外側を深く掘り切り、その南側が中郭で北面に土塁の痕跡の高まりが残り、堀切越しに主郭とは連絡していないようである。中郭の南側を更に浅い堀切で区画し、南側に南郭を設けるが、地形に制約され「し」の字形に先細りにカーブしている。南郭から一段下がった南東から南、西側に帯郭が付帯している。

また、主郭の東側に小さな支尾根が張出し、三段に削平されており、谷を見張っていたと考えられる。

主郭土塁曲郭2の上部土塁主郭と曲郭2の間の堀切曲郭3の土塁(曲郭内は矢竹で確認出来ず)

歴 史

岡之下城・・・・は、詳細不明であるが、在地土豪の馬杉氏の一族の城か。

『甲賀郡志』に「六角氏白旗隊馬杉丹後守の築く所にして、元亀年間同氏の衰亡と共に遂に廃墟となる。」と記されている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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馬杉中城  近江国(甲賀・上馬杉)

2015年05月07日 | 丘陵城

 

主郭背後の大土塁 主郭基壇に稲荷神社の石碑

 左・・・馬杉中城、右・・・岡之下城

お城のデータ

所在地:滋賀県甲賀市(旧:甲賀郡)甲南町上馬杉小字岡ノ下 map:http://yahoo.jp/2sf2qk 

区 分:丘城

遺 構 :土塁、堀切、虎口・

築城期:室町期

築城者:馬杉丹後守

廃 城:織豊期(元亀年間同氏の衰亡と共に遂に廃墟となる)

城 主:馬杉丹後守

標 高:230m   比高差:20m

目標地:油日神社・誓蓮寺・上馬杉草ノ根ハウス

駐車場:上馬杉草ノ根ハウス

訪城日:2015.5.5

お城の概要

馬杉中城・・・・は、岡之下城の立地する尾根の北方背後に位置する頂部から南に張出しのびる尾根先端部に築かれている。

 構造は、北側背後を堀切で遮断し、土塁に囲繞された方形郭に副郭が付属したと考えられている。しかし、現在は背後の堀切と北面土塁が「コ」の字状に残るのみで、方形郭の南側と副郭は破壊され、土塁から南は約60mに亘り平坦地から緩斜面が続く地形に変貌している。
残存する土塁の東端部は高く巾が広くなっており、櫓台と見られる。

 馬杉中城は単郭の城で、北背後を高土塁と堀切で遮断して切り離し、広い削平地を設けている。

土塁はコの字状ですぐ下に土壇があり稲荷社の石碑が建っている。

南側の尾根先は堀切があったのか定かではないが、林道の入口が堀切状の地形を通って東側の山腹へ登っている。

林道(参道)を入ると、獣害ヘンスを開けて、馬杉中城東側の横下を通って、太子堂まで簡単に入ることができる。

 

北背後を高土塁と堀切で遮断して切り離し

主郭背後の高土塁(最高所)

堀切で遮断して切り離し

 稲荷神社の石碑主郭背後の土塁(最高所)

歴 史

馬杉中城・・・・は、詳細不明であるが、在地土豪の馬杉氏の一族の城か。

『甲賀郡志』に「六角氏白旗隊馬杉丹後守の築く所にして、元亀年間同氏の衰亡と共に遂に廃墟となる。」と記されている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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馬杉支城 近江国(甲賀・上馬杉)

2015年05月07日 | 丘陵城

北(上)が馬杉城・・尾根続きの南(下)馬杉支城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲南町上馬杉(甲賀群甲南町上馬杉)   map:http://yahoo.jp/9jg6-V

区 分:丘陵

築城年:室町期

築城者:馬杉氏

遺 構:土塁、堀切、

標 高:240m 比高差:30m

目標地:油日神社・誓蓮寺・上馬杉草ノ根ハウス

駐車場:上馬杉草ノ根ハウス

訪城日:2015.5.5

西側の・・・犬走りか?

獣害フェンスの中へ

上水道第二配水地を南へ頂部見張り櫓台か?横堀

お城の概要

馬杉支城は馬杉城の南背後の尾根続き(今は、間に民家で遮断=往古曲郭・城門だったかも?)に築かれている。

馬杉支城・・・・は、馬杉城の南隣の細尾根に築かれている。削平が不十分で傾斜や段差があり、遺構は不明瞭である。西側に近年敷設された道路端から東へ緩やかに傾斜した地形が30m程続き、南北方向に堀切を設け先端部を区画している。

 堀切の東側に土塁が築かれ、約30m四方の緩やかに傾斜し、北東一画が一段低くなった区画が続いている。その先にも台形状の平坦地がある。
しかし、民家の南側基壇は近年、畑や果樹園に平削され、残る遺構から城郭の困難である。

その下に南北に横堀状の地形が残る。その先もなだらかな地形となっている。

 東側の曲郭

歴 史

馬杉支城・・・・は、詳細不明であるが、在地土豪の馬杉氏の一族の城か。

『甲賀郡志』に「六角氏白旗隊馬杉丹後守の築く所にして、元亀年間同氏の衰亡と共に遂に廃墟となる。」と記されている。

馬杉支城・・・馬杉城(遠望・・・馬杉中城登り口より)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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馬杉城 近江国(甲賀・上馬杉)

2015年05月06日 | 丘陵城

北(上)が馬杉城・・尾根続きの南(下)馬杉支城

お城のデータ

所在地:甲南町上馬杉字針間、南谷   map:http://yahoo.jp/ywJFd1

区 分:丘陵

築城年:室町期

築城者:馬杉氏

遺 構:土塁、堀切、

標 高:230m 比高差:30m

目標地:油日神社・誓蓮寺・上馬杉草ノ根ハウス

駐車場:上馬杉草ノ根ハウス

訪城日:2015.5.5

東側の民家の斜面を城址へ

東側鞍部土塁・・・西側15m下が主曲郭か中央部の浅堀切曲郭の最北部墓地も城域であったか?・・誓蓮寺の南の墓地山からも、堀切?(城道?)馬杉城へ入れます。

 

民家へ民家の北側土塁民家の東側土塁

お城の概要

この上馬杉地区だけで7つの城館があります。

甲賀でも伊賀に近い馬杉地区は、伊賀と同じように一族郎党がこぞってその地域を支配していた。
7つの城の方形単郭の城が守っている中の、根拠には『馬杉本城』が東丘陵に築かれている。

誓蓮寺の東の民家は土塁で囲われいた(曲郭跡か)

馬杉城・・・・は、甲南町上馬杉集落の西端に南西側丘陵から北東へ張り出した尾根の先端頂部に築かれている。

構造は、主郭とその南東側に二段の帯郭が取り巻いている。主郭の南西面には、高さ約4mの削り残しの高い土塁が、北東面にも低い土塁が残っている。

南西面の土塁は、高さも高く、天端巾も広く、櫓台に使用されたと思われる。なお、南西側は道路敷設で大きく削り取られ、堀切は失われている。北東面の土塁の両端は、削り均されているようで、虎口などは不明となっている。

誓蓮寺から馬杉城を見上げる

歴 史

馬杉城・・・・は、詳細不明であるが、在地土豪の馬杉氏の一族の城か。

『甲賀郡志』に「六角氏白旗隊馬杉丹後守の築く所にして、元亀年間同氏の衰亡と共に遂に廃墟となる。」と記されている。

馬杉(椙)氏は近江国甲賀郡の土豪で、馬杉丹後守は六角氏に仕え、元亀年間に衰亡しました(「甲賀郡志」下巻第17編第35節)。

馬椙秀昌は馬杉氏の一族と考えられます。

 伊賀・甲賀衆は託された本来迎図を何処へ持っていったのでしょうか。それは不明ですが伊賀
・伊勢国で皇室と深い関係をもつ寺院に持ち込まれた可能性が大です。

何故ならば本来迎図は比叡山安楽谷の勅封蔵に保管されていた旨の本図裏書の記述があります。また甲賀衆の山中氏は鈴鹿盗賊追捕使に補任され、伊勢神宮柏木御厨(近江)の保司職を得た。

 時代をさかのぼれば建武年間、山中氏惣領実秀は伊勢に移住(「山中文書」二のル「水口町志」下巻史料編)しており、山中氏は伊勢にも所領などの勢力基盤をもっていたことを示しています。

馬杉支城・・・馬杉城(遠望・・・馬杉中城登り口より)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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馬杉本城 近江国(甲賀・上馬杉)

2015年05月06日 | 丘陵城

西側虎口縄張り概要図(甲賀の城より)尾根を遮断する大堀切

お城のデータ

所在地:滋賀県甲賀市甲南町上馬杉小字城出    maphttp://yahoo.jp/-HahQK 

区 分:丘城

遺  構 : 土塁、堀切、虎口

築城期:室町期

築城者:馬杉丹後守

廃 城:織豊期(元亀年間同氏の衰亡と共に遂に廃墟となる)

城 主:馬杉丹後守

標 高:240m   比高差:30m

目標地:油日神社・誓蓮寺・上馬杉草ノ根ハウス

駐車場:上馬杉草ノ根ハウス

訪城日:2015.5.5

馬杉本城(遠景)西の通路は誓蓮寺から城山を見たとき案内が設置されている。上馬杉草ノ根ハウスから東南(馬杉城の東)

東側にも山の墓地・城跡の入る道がある。

お城の概要

  馬杉本城は北へ張り出した尾根の先端頂部に築かれている。 主郭は北東側を除き土塁が巡り、南背後の尾根には三重堀切を設けて遮断している。 土塁の西側中央に虎口、北にも通路がある。北の通路は土塁の間を屈折して降りており、腰曲輪を経て西の麓に通じる。

 上馬杉のうち、南の丘陵から上馬杉集落の中央へ張り出した独立丘状の尾根先端部に築かれている。
北東面を除き土塁に囲繞された主郭は、東西約25m、南北約30mあり、馬杉地区内の城跡としては最大規模とされる。

 虎口は、北面と西面に開口しているが、北虎口の東側土塁は近年に削り取られ消失している。通路は、西側斜面を下り、北腰郭を経て西麓に通じている。西虎口は西側の小さな帯郭の段列に通じ、さらに西下にある西腰郭を見下ろす位置にある。南面の土塁は、巾が広く見張り台の役割を果たしたと見られている。

 尾根続きの南背後は鞍部となるが、その手前に小さな二重の堀切、さらに手前に巨大な堀切を設けて厳重に遮断している。また、巨大堀切の堀底西端には小さな土塁を設け武者隠しとし、北西下方の帯郭を睨んでいる。
馬杉氏の本城だけあって堅固な防御を誇る遺構が残されている。

主曲輪は南北30m東西40mで、丘陵の先端を三重の堀切で区切り、東・南・西の三方を土塁で防御していた。 虎口は、西に開きその下方には副郭が、更に小さい谷を挟んで別な曲輪が、という風に「さすが本城」との感じを持った。

東から登城

城背後大土塁

大堀切で遮断

東側の曲郭

歴 史

馬杉本城・・・・は、『甲賀郡志』に「六角氏白旗隊馬杉丹後守の築く所にして、元亀年間同氏の衰亡と共に遂に廃墟となる。」と記されている。また、馬杉氏の本拠と伝承されている。

馬杉(椙)氏は近江国甲賀郡の土豪で、馬杉丹後守は六角氏に仕え、元亀年間に衰亡しました(「甲賀郡志」下巻第17編第35節)。

馬椙秀昌は馬杉氏の一族と考えられます。

 伊賀・甲賀衆は託された本来迎図を何処へ持っていったのでしょうか。それは不明ですが伊賀
・伊勢国で皇室と深い関係をもつ寺院に持ち込まれた可能性が大です。

何故ならば本来迎図は比叡山安楽谷の勅封蔵に保管されていた旨の本図裏書の記述があります。また甲賀衆の山中氏は鈴鹿盗賊追捕使に補任され、伊勢神宮柏木御厨(近江)の保司職を得た。

 時代をさかのぼれば建武年間山中氏惣領実秀は伊勢に移住(「山中文書」二のル「水口町志」下巻史料編)しており、山中氏は伊勢にも所領などの勢力基盤をもっていたことを示しています。

東側から遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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水口岡山城伝三の丸は居住空間だった

2015年05月03日 | 戦国山城

水口岡山城伝三の丸は居住空間だった                                 2015.5.7up

=豊臣政権の対「家康」防御拠点= 

伝三の丸で検出された平入り虎口の階段(手前)


 豊臣政権によって築かれた水口岡山城(甲賀市)について、伝三の丸は居住空間の可能性が高いと、城跡で調査を進める甲賀市教育委員会が発表した。また、東国への備えとして、周辺の寺院から瓦を転用して急ピッチで築城が進められたことが、遺構の状況からあらためて浮き彫りになった。

現地説明会 2015.4.19 PM13:30~

出土品

① 虎口内の石積

除籍栗石

前年発掘調査地(寺院跡)

② 三の丸・・・階段と門敷石

③ 本丸下の

本丸の調査中

 

東側・・・残された石垣

イベント・・・バルーン水口岡山城

 

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