華麗なるオーストラリアンライフ

渡豪17年。職業・看護師。
白熊のようなオージーの旦那1人とワンコ2匹で
ニューサウスウェルス州の田舎町で生息中。

夢追う人

2012年03月14日 23時13分27秒 | Weblog
先日、グループでしゃべっていた際、今後の方向性が見えずにモンモンとしている人の話を聞く機会があった。その人が「方向が見えないけど、とりあえずA方面にいきたい。けどその後の詳細が決まっていない」と言う。すると別の人が「先に目標を決める方が先。そして目標に向けて努力するほうが早い」と言った。
これは確かに正論。だけど目標を見つけるってそんなに簡単なことやろか?

昔は親からの田畑や事業を引き継ぐことがほぼ決まっていたため、進路について悩むことが少なかったらしい。良くも悪くも選択肢がなかったということなんやろう。ところが、幸か不幸か将来の選択肢が増えている昨今、逆に夢や目標を見つけられない人が増えているという。このところの不景気がこの傾向を助長させているとも思われる。
ちなみに、選択肢増加により生活様式が多様化する一方で、“他者と違わず同様であること”を求められがちな日本文化は以前色濃く残っており、そのハザマで以前にはなかったタイプのストレスやプレッシャーに悩む――という現象がうつ病増加の一因となっているらしい。

閑話休題。

私は将来の目標を見つけるということ自体が簡単なこととは思えない。私自身、ライターになるという夢をかなえた後、“何か”を求めて何の目標も持たないままオーストラリアにやってきて、バリバリの場当たり主義者でやってきた。それでも何とかなっている。たとえば最初から「オーストラリアで看護師になる!」やら「オーストラリア人と結婚する!」と決めて活動していたら時間もお金ももっとセーブできただろうけど、当時そう思えなかったんだから仕方ない。私の場合は「看護師になるんだ!」という目標を持つに至るまで数年間の豪州生活が必要だったということだ。
夢や目標がひとつである必要なんてどこにもなく、後で変わってもいいんだから、“とりあえず”で何でも挑戦してみるべきというのが私の考えるところ。もちろん、ヘタを打つ場合もあるけどそこから学ぶものや何かしらの出会いはあるはずなので、あとで活かせばそれでよいと思う。また、自分の“やりたいこと”と“やれること”が必ずしも一致するとは限らない。それを知るためにも状況が許すのであれば何でも経験して、そのうちに目標や夢が見えてくるのではないかと思う。人様に迷惑さえかけず、現実(非正規職員や無収入等)を受け入れられたらそれでいい。

なぜ今日こんなことを考えているかというと、上記の会話のせいでもあるし、今日会った友達との会話にのせいでもある。彼女には叶えたい目標があるけど簡単ではないゆえ、何かと理由をつけて挑戦していないだけだという自覚があるとのことだった。あと別の友達ともこういう話をしたところ。こんな感じで“目標”“夢”という言葉がなぜか耳に届く機会が多く、このところずっとこう手のことを考えていた。

ただ、私は小さな目標がわりと次々見つかっていたので、自分の方向性に悩んだことはあまりないのかもしれない。というか、思いついたら飛び込んでたので、悩むヒマがなかったのか!? だからもしかすると今日の内容は傲慢な意見なのかも。まぁ、書いちゃったから掲載しよっと。

またもや眠いので校正はまた明日。
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