毎週日曜日は、お昼と云えば「NHKのど自慢」を見ている。
PC中で耳で聴いてるだけが多いが・・・・。
巧い人の時には、思わず顔を上げてTVを視る。
イメージとして、きょうの北九州からの画面を載せておきます。(クリックで拡大します)
97歳のおばあちゃんが難しい歌を(お梶)・・・。
唄い終えた本人はケロリとしているが
付き添いの亜矢姫が・・まだ心配そうに・・・。
会場で見たのは、一回だけ・・・・高校3年時に矢板市で。
今では、入場券を貰うには地元のNHKに往復ハガキを出すが、アノころは公民館で誰でも貰えた。
学生服だったから、翌日合唱部の先生にテレビで判ったという。
そして司会者は、宮田輝さんが政治家になったために、
後任は東日本と西日本とで二人制となったばかりだった様な気がする。
出場者は、今の様に20人ピッタリではなく、放送時間が終了後もアト数人が残っていた。
矢板の時には、3人が放送されなかった。(放送後に続行された)
その当時は、ゲスト歌手などはいなかった時代だ。
今では唄い終えれば、アナ氏が一人ひとりにインタビューするが、
アノころは数人おきに ディレクター氏がアナ氏の背中を押していた。(コレ行け・・みたいに)
もちろんチャンピオンも熱演賞も無かった時代の話です。
時は移って、20歳頃になると自分が出たくなってきた。
場所も静岡県清水市(現・静岡市)にいた。
水曜日休みではあったが、割と自由な製菓会社で、先輩も工場長も親しみやすい方達だった。
NHKのど自慢には縁が無かったが、あるときSBS静岡放送で「電話のど自慢」と云うのが開催された。
第1回目をスルーして、どの位のレベルの人が出るのか聴いていたがこれなら大丈夫と2回目に申し込む。
課題曲が5,6曲あって、その中から選んではがきに希望曲を書いて投函する。
私好みの曲は無かったが、「赤いハンカチ」(裕次郎)が無難そうだった.
抽選で当日のお昼頃にTEL で連絡があった。
ドキドキして、お昼は食べられなかった(汗;)。
事務所には5,6人の事務員さんがいたが、皆さん静かに下を向いて仕事をしてくれていた(笑)。
電話口から聴こえる スタジオで弾くオルガンに合わせて唄ったが、
何とか無難には唄えたらしい・・・。
その後、ラジオを聴きながらいつもの様に仕事をしていると、先ほどの結果が放送された。
何と優勝との事だった。
参加賞の万年筆と、優勝商品の小型ラジオが後から送られてきた思い出がある。
「NHKのど自慢」には、2回ほど出場した・・・(アッ、予選ですよ!、予選!)
司会者は、金子辰夫さん。かなりの長期政権(?)だった。
「宇都宮市制八十八周年記念」に、文化会館が落成して、そのこけら落しに誘致されたようだ。
はがきで1000人以上が応募し、400名位に絞られる。
午後から唄って25名(当時)が選抜された。当然夜まで掛かった。
栃木県は、民謡が盛んで5名位は民謡の方だったように記憶しています。
そして、その頃はゲスト歌手も付いていまして、村田英雄さんと森昌子さんだった。
村田さんの「夫婦春秋」が流行ってた頃で、これを唄う方が30人位続けて並んでいたのには驚いた。
30歳チョッと前位の頃だったろうか?
予選に落ちたら(曲名は後述)、落胆が激しくてX2 、かなり落ち込んでしまった。
経験が無い位の相当な落ち込みで、
気が張っていた分、緊張が解けたのだろう.
その後毎年の様に「NHKのど自慢」には、はがきを出し続けたが
佐野市、氏家町(現・さくら市)・足利市など・・・全部はがきの抽選で落選続き。
南河内町(現・下野市)に、初めて5枚と云う複数枚を出して見たら内の一枚が抽選で当たった~。
金子アナがあいさつで、のど自慢は【明るく、楽しく、元気よく】だと初めて言われ、
その頃になってようやく気が付く。(今は毎週のように言っていますが、当時は初めて聞いた様な・・)
1回目も、2回目も選曲した歌は、「サヨナラも言えず、泣いてい~る、私の踊り子よ~・・」の「踊子」。(歌・三浦洸一さん) これでは、予選通過は何回やってもダメだ~。
ステージの上で、かなり上がるだろうから、上がっても唄える歌という事で、これに決定したのですが
日曜日昼の番組ですから、【明るく、楽しく、元気よく】は当たり前ですね。
選曲も悪かった~~。
その頃にようやく気付きまして現在に至っております。
カメラを見ながら、笑顔で唄える方って素人?
素人ながら、底知れぬ度量を見せてくれますね。
「私とNHKのど自慢」、たったこれだけですが、
放送に出られた方、チャンピオンになった方、熱演賞を貰った方・・・いろいろ拘わりがありますね。
もっとX2 ,思い出が満載でしょうね・・。
PC中で耳で聴いてるだけが多いが・・・・。
巧い人の時には、思わず顔を上げてTVを視る。
イメージとして、きょうの北九州からの画面を載せておきます。(クリックで拡大します)
97歳のおばあちゃんが難しい歌を(お梶)・・・。
唄い終えた本人はケロリとしているが
付き添いの亜矢姫が・・まだ心配そうに・・・。
会場で見たのは、一回だけ・・・・高校3年時に矢板市で。
今では、入場券を貰うには地元のNHKに往復ハガキを出すが、アノころは公民館で誰でも貰えた。
学生服だったから、翌日合唱部の先生にテレビで判ったという。
そして司会者は、宮田輝さんが政治家になったために、
後任は東日本と西日本とで二人制となったばかりだった様な気がする。
出場者は、今の様に20人ピッタリではなく、放送時間が終了後もアト数人が残っていた。
矢板の時には、3人が放送されなかった。(放送後に続行された)
その当時は、ゲスト歌手などはいなかった時代だ。
今では唄い終えれば、アナ氏が一人ひとりにインタビューするが、
アノころは数人おきに ディレクター氏がアナ氏の背中を押していた。(コレ行け・・みたいに)
もちろんチャンピオンも熱演賞も無かった時代の話です。
時は移って、20歳頃になると自分が出たくなってきた。
場所も静岡県清水市(現・静岡市)にいた。
水曜日休みではあったが、割と自由な製菓会社で、先輩も工場長も親しみやすい方達だった。
NHKのど自慢には縁が無かったが、あるときSBS静岡放送で「電話のど自慢」と云うのが開催された。
第1回目をスルーして、どの位のレベルの人が出るのか聴いていたがこれなら大丈夫と2回目に申し込む。
課題曲が5,6曲あって、その中から選んではがきに希望曲を書いて投函する。
私好みの曲は無かったが、「赤いハンカチ」(裕次郎)が無難そうだった.
抽選で当日のお昼頃にTEL で連絡があった。
ドキドキして、お昼は食べられなかった(汗;)。
事務所には5,6人の事務員さんがいたが、皆さん静かに下を向いて仕事をしてくれていた(笑)。
電話口から聴こえる スタジオで弾くオルガンに合わせて唄ったが、
何とか無難には唄えたらしい・・・。
その後、ラジオを聴きながらいつもの様に仕事をしていると、先ほどの結果が放送された。
何と優勝との事だった。
参加賞の万年筆と、優勝商品の小型ラジオが後から送られてきた思い出がある。
「NHKのど自慢」には、2回ほど出場した・・・(アッ、予選ですよ!、予選!)
司会者は、金子辰夫さん。かなりの長期政権(?)だった。
「宇都宮市制八十八周年記念」に、文化会館が落成して、そのこけら落しに誘致されたようだ。
はがきで1000人以上が応募し、400名位に絞られる。
午後から唄って25名(当時)が選抜された。当然夜まで掛かった。
栃木県は、民謡が盛んで5名位は民謡の方だったように記憶しています。
そして、その頃はゲスト歌手も付いていまして、村田英雄さんと森昌子さんだった。
村田さんの「夫婦春秋」が流行ってた頃で、これを唄う方が30人位続けて並んでいたのには驚いた。
30歳チョッと前位の頃だったろうか?
予選に落ちたら(曲名は後述)、落胆が激しくてX2 、かなり落ち込んでしまった。
経験が無い位の相当な落ち込みで、
気が張っていた分、緊張が解けたのだろう.
その後毎年の様に「NHKのど自慢」には、はがきを出し続けたが
佐野市、氏家町(現・さくら市)・足利市など・・・全部はがきの抽選で落選続き。
南河内町(現・下野市)に、初めて5枚と云う複数枚を出して見たら内の一枚が抽選で当たった~。
金子アナがあいさつで、のど自慢は【明るく、楽しく、元気よく】だと初めて言われ、
その頃になってようやく気が付く。(今は毎週のように言っていますが、当時は初めて聞いた様な・・)
1回目も、2回目も選曲した歌は、「サヨナラも言えず、泣いてい~る、私の踊り子よ~・・」の「踊子」。(歌・三浦洸一さん) これでは、予選通過は何回やってもダメだ~。
ステージの上で、かなり上がるだろうから、上がっても唄える歌という事で、これに決定したのですが
日曜日昼の番組ですから、【明るく、楽しく、元気よく】は当たり前ですね。
選曲も悪かった~~。
その頃にようやく気付きまして現在に至っております。
カメラを見ながら、笑顔で唄える方って素人?
素人ながら、底知れぬ度量を見せてくれますね。
「私とNHKのど自慢」、たったこれだけですが、
放送に出られた方、チャンピオンになった方、熱演賞を貰った方・・・いろいろ拘わりがありますね。
もっとX2 ,思い出が満載でしょうね・・。