チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

富岡製糸場 2

2009年09月30日 09時33分52秒 | 日記
昨日の続きーーー
富岡製糸場は明治5年10月に操業が始まった
工場界というのは時代とともにスクラップされていくのだが
創業当時の建物で同じ事業を115年も続けた例は
世界に余り無いのではなかろうか

明治政府の後をつないだ片倉工業(株)の経営理念もすばらしい

このお陰で日本は生糸の輸出国として明治・大正を世界に君臨
絹文化を世界にアッピールしてきた
昭和40年前半までは生糸の輸入は全く無い

アアそれなのに
ただいまは輸出どころか
絹全体の消費量の中純国産の生糸は3%の生産量
絹を愛した民族はどこへ行ったのかーー

さて
明治5年の富岡製糸場では
女性の工員が400人必要であった
お国からの依頼で上州、信州などを中心に
良家の子女に声をかけたが

フランス人の指導者が駐留をしているため
血を吸われる
油をかけられる
と流言が飛び、怖がって
「嫁に行けば行かないですむ」
とにわかな結婚ブームもおきて
一日に3回仲人をするつわものも居たらしい

血はワインのこと
ワインを飲む姿は生血を飲んでいるように取れたのであろう
油はフライパンに油を引き肉を焼いたりする姿に驚いたのだ
たかだか今から130年前の姿である

しかし
富岡製糸場に「ご入場」(当時はこう云っていた)してみると
新しい学問、作法、文化講座もあって
自立した女性が育っていく
そして此処で技術や知識を身に付けた女性達は
それぞれの地域に戻り指導者となっていく

ご入場者は15歳から18歳という少女達
4年後には立派な指導者に成長し
各地で絹文化を広める
それが高崎、八王子、横浜と続くシルクロードを
作り上げた

読み書きソロバン裁縫、作法
それらを身に付けた女性達はそれぞれ日記を書いていて
最近その日記が翻訳された
昔は候文で今の人は解読不能なので
平成11年に翻訳整理されて出版されている

「富岡日記」 和田 英著 群馬県文化事業振興会
生き字引のような今井幹夫氏が背景を詳しく調べ解説している

今井さんのご好意で富岡製糸場にある
ワインセラーを見せていただいた
フランス人のワイン好きは生活の一部なのだとわかる

赤レンガ造りの立派なもので
其処は血を飲むと噂を立てられ身の危険を感じた
フラン人家族の隠れ場でもあったらしい

来年桜の花の盛りのとき
つれづれの修学旅行をこの地に決めた
ぜひご参加ください

私たちの先輩が繭を愛し糸を作り
日本の文化に貢献した歴史を一瞬でもその場で感じたい
だって日本人だからーー
コメント
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