チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

戦争体験 9

2021年08月26日 09時49分31秒 | 日記
新しい長屋の住処には家具らしきものはない
まだ戦争中に兄たちが命がけで焼け跡から掘り出した什器、または衣類、本、そそいぇ防空壕に入れてあった家具調度品が唯一の家庭道具であった

配給米は玄米だったので、子供の私は一升瓶に入れた玄米を棒で衝いて、お米から皮を外すさぎょうをさせられていた。長く持つ芋やカボチャがよく食卓に並んだ。父のお客さんが弁護士料代わりに缶詰を持ってきてくれて、その中の桃の缶詰のおいしさに感動をしたのを覚えている。食べられるものは何でも口にした
母は私の腎臓病で培った薬草の知識があったので、林の中から食べられる草やキノコを採集してきて食卓に載せた。味噌醤油も配給で、さいわい米穀卸組合に勤め始めた姉のおかげで塩も手に入れることが出来たので、野草もとてもおいしかった

ガスなどなく薪で煮炊きをするので、明るいうちに林に入り落ち葉や枯れ枝をかき集め手伝っていた。父も兄も姉も弁当持参で出かけるが、焼け跡から持ってきたおかまが大活躍。母は早くから起きて火をおこし、水は水道が来ていたのでそれだけは助かっていた

梅干しは防空壕に蓄えていたので、弁当に大活躍。焼け跡から掘り出した重箱を弁当箱として使っていた。漆の強さはすごいねと姉たちが感心していた。中身は覚えていないけど梅干しを入れる役目は私がしていたので、必ず梅干しが入っていたのは記憶がある

時にお芋だけという日もあった

私はまだ療養中でゆっくりした日々を母の手伝いをしながら過ごしていた

姉たちが日々おしゃれになって元気になり、自分が着る洋服を作ったりしていて私との接触も少なくなったころ、裁判所ではもう法廷衣裳は着ないということになり、父の法廷衣裳を解いて素敵なワンピースが出来上がり、それを見た私は一気に「綺麗な洋服を着たい」という願望がふつふつとわいて、体中に血がみなぎりはじめ、綺麗な洋服を着たいばかりにどんどん元気になっていった

そういう私を見た姉は、これも焼け跡から掘り出していた、彼女の真っ赤な無地の防寒コートを解いて白い襟をつけたワンピースをこしらえてくれた。そのワンピースを着て学校に行きたくなり私は徒歩30分の町の小学校に母と共に転校届を出しに行った

早速4年生のクラスに転入。真っ赤なワンピ―スが強烈なインパクトを与えたらしく、大騒ぎで受け入れられた。この日を機に勉強よりみんなと遊ぶことの方が楽しくなった
コメント
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