チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

戦争体験 10

2021年08月27日 09時14分51秒 | 日記
30分歩いて学校に通うということがよかったらしく、私はみるみる健康になり、友達も増えて学校がとても楽しくなった
新しい学校での通知表を持ち帰ったとき兄が
「ヒサちやんこんな成績悪いの?」
父が
「今は元気に毎日学校に通うのが一番、教室できちんと授業うけているればそれで充分」
確かに往復一時間あるき、帰りはあちこちより道をするのでさらに時間はかかっている、そしてお休み時間は友達とドッジボールやかくれんぼうするので、家に帰って教科書など開く気力もなく横になる。予習も復習もしない毎日だった

しかし夕飯が終わるとお天気のいい日は父が私を散歩に連れ出し、兄が通う中学校の運動場で星空を見ながら、星の名前やその物語を教えてもらい、そのロマンの話がとても楽しかった。


冬が近くなって一人一人の冬布団が必要になり、母は生地を求めて闇市に行くと、昔の家の近くの布団屋さんと出会い、早速生地とワタを仕入れてきたちょっと興奮気味。それから毎日女たちは母を手つだって布団づくり。私はもっぱら真綿を引っ張る役目。ミシンはやはり焼け跡から取り出していたが組み立てることもできず、疎開先にほったらかしてたのを、兄が行って自転車屋さんの指導の下めでたく組み立て動くようになっていた。当時の足はすべてリヤカーだ。

今思うと爆弾は家は吹っ飛ばすけど、什器や本などは土にまぎってしまうので、無傷のものもある。本も随分掘り出していたし本箱も組み立てることが出来た。お天気のいい日は本を干して泥を落とす作業も私の仕事だった

姉たちの時代は小学校後年になるとお裁縫が必須だったらしく、着物も洋服も縫えるようになっていたし、下の姉は編み物が好きで編み物の先生のところに通っていた。そのおかげで私のセーターはすべて姉の手によるもので、いろや形の希望は却下され、姉の好みのものになるので、私は不満だったが、そんなことを言える時代ではなかった

同級生の中には同じ洋服を毎日着てくる子もいたし、弁当を持ってこない子もいた。みんな疎開から戻ってきたけど、住むところも食料もままならないという状況だったと思う。その話を母にすると
「薪集めを手伝って」といって家に連れてきなさい
3人の男の子と2人の女の子に声をかけて、土曜日の午後林の中で過ごした。家に帰るとどこでどう工面したのか母の手作りパウンドケーキと麦入りのお結びが廊下にお盆と一緒に出ていて、みんな目を輝かしてキャーキャー喜んだ

この子たちはその後母との交流が母が死ぬまで続いていた
コメント
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