渡り職人の話
着物の染職人で渡り職人全盛は昭和40年代から50年代にかけて
其れこそ自分のヘラ一本で渡っていた
その頃の渡り職人の日当が高校の校長の日当と同じかそれ以上だったというのだから、そのお金をためて独立するということもできたが、生粋の職人は人の上に立つという気量は持っていなくて、その日楽しく暮らせればいい。という感覚だったらしい
「宵越しの銭は持たぬ」という考え方で、その日にもらった給金は全部酒やばくち、女でキレイさっぱり使ってしまう。それでも払いきれないときは、親方が弁償するという、いとも長閑な親方と職人の関係
「腕は確かだけど、生活態度がねえ」ということで所帯も持てずふらふらしている人が多かった
昨日は高橋孝之さんのところで、そのころの話に花が咲き、お互いに見聞きした事を繋ぎ合わせていたら、着物の別の顔が見えてきて面白かった
高橋さんのところはお父さんが親方だったので、渡り職人を抱えていた。渡り職人は今のような情報が氾濫していない時代には、技術の情報はもちろん、自分たちが暮らした町の状況、社会の裏側などを知ることもできて、話題は多い人達でもあった
その頃高橋さんはまだ小学校から中学生の頃なので、そのおじさんやお兄さんたちの諸国の話が面白く、よく話をせがんでいたという
チャ子ちゃん先生が着物の取材を始めたときは、渡り職人全盛のころで十日町に行ったとき、今は時めく名前の人たちも染場に立っていた。また一人技術の東京染工房にも、のちに名を成す人の顔もあった
時代がサラリーマン制度全盛になると、渡り職人たちも、一箇所に腰を落ち着け、グループを指導する人も出てきて、住みやすい場所、自分のお得意とする技法を望んでいる所で、染め工房を持った
名前の出た人の陰で、今でもひっそりと染を続けている職人たちがいる。時代が変わるとこういう方の出番もきっとある
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