端境期の着物と言えば、絽縮緬、絽紬、絹縮、楊柳、明石も
しかい今はもう絽縮緬も絽紬の生産もなくなったという
日本人は季節の端境期を微妙な布で季節を過ごしていたようだ
そういう季節の過ごし方を垣間見てきたたチャ子ちゃん先生は、そういう感覚をきちんと伝えたほうがいいのではないかなと最近思う
知る必要がない人もいるだろう
すべて過去のことだとして消してしまうべきと思う人もいるだろう
勿論着物なんて全く関心ない人も大勢いる
でも考えてみたい
高々70年前、着物はお米と物々交換が出来ていた
だから着物を大事に考えたいということではなく
着物を通じて知る日本の文化をもっと繋いでいきたいと思っている
日本の四季折々の過ごし方ももう一度整理して見たい
それは日本人が自然との共存共栄の中で培われてきたものである
自然を作った神を恐れ愛しともに歩む相手として共存してきた
今私たちは「神」の存在をどう扱っていいのかが分からなくなっている
先日知人と景色のいい場所で自然の美しさをたたえていた時
「花の色、花の形一つ人間は作れないのよね」
とつぶやいたら
「それを作ったのは神と言いたい?」
「それは当然でしょう?人間は作れないもの」
「比佐子さんは神を信じるんだ」
「はい」
それから会話が弾まなくなった
いま根本のところで「この人とは土壌が違うのだ、立ってる場所が別なのだ」と思い知ることがある
最近特に多い
自分と同じ考えを望まず、相手の思考にもはいらず、淡々と付き合っていくのがいいのかなと思う
着物の素材の端境期に手を通す微妙な感性も
日本人はおおきな力から与えられているのではないだろうか
気持ちよく季節を迎え、そして過ごすために与えられた端境期の素材を、私たちは捨ててしまう過渡期にいるけど、心地よきものとして残せるものは残していくことが、未来の人たちに対する優しさではないかしらん
「なくなるものはもうこの世に必要がないからですよ」
と、件の知人は切り捨てたけど、それも一理あるかもしれないと思ってしまう
皆様はいかがでしょう
そんなこと考えた三日間でもあった
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