返還前の沖縄染織の状態を知りたいと、返還話が煮詰まり始めた1968年(昭和43年)の夏沖縄に取材に出かけた、
その頃はもう家庭画報の着物のページを受け持っていた
編集長の本多光夫さんが、奄美大島も返還前と後では大島紬の様子がずいぶん変わったので、沖縄の染織状態も見てきた方がいい。という意見もあり、またチャ子ちゃん先生も着物のことを追求していると、どうしても沖縄の染織は外せない。またアメリカが統治している沖縄が見たいという気持ちも強かった
馬鹿みたいに驚いたのは「肉の大きさ」まるで草鞋のような肉を米軍の兵隊たちがほおばっている。美しい海には囲いがあって日本人が入れない場所がいっぱい。ここもダメあそこもー-と海岸に出られない。さらに米軍の将校たちが集まるところのなんとゴージャスなこと
そんなことよりまず離島に行くことにした。宮古島。そこは「薩摩上布」の産地。宮古島で生産しているのに「宮古上布」ではいけないの?という疑問
薩摩が沖縄を統治していた名残が、こういう産物に残っているのだ
久米島で生産されている紬は「久米島紬」石垣島で織られている麻と木綿の布は「石垣交布」なのに宮古島で作られる麻の反物だけが「薩摩上布」と名付けられていた
何故何故としつこく食い下がる私に、島の郷土研究家が宮古島と薩摩の関係を一日がかりで解説してくれた
岬に立って青い海を見た
地球は丸い海原の遠くは楕円形になっている
「ある日あそこに豆粒のような黒い陰が出来それが動き始めたとき、日本は終わりと思った、そして昔の薩摩の圧政と同じになるのかとー--」
と次に案内されたのが「人頭税」の石、薩摩の政策で個の石より背丈が伸びたら、税を取るということで、税を払いたくない人は足を切断する人もいたという
そういう中で織り続けられた薩摩上布は島の最高の収入源でもあった
当時はまだ残っていた女たちが集まって機織りをする小屋に案内されたが、小さな窓の明かりの中で、女たちが上布を織り続けていたのだ
私が出来ることは自分が書く原稿に「薩摩上布」ではなく、「宮古上布」と書き続けることだった
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