昨日は
「結城紬ユネスコ文化遺産登録10周年記念」で記念講演をさせていただいた
結城市から「結城紬大使」の拝命を受けて8年になる
結城紬大使になったから結城紬着るようになったというわけではなく
着物に興味を持ち始めてこちらずっと結城紬を愛用している
母の物もある、結城紬卸商の「奥順」の現社長のおばあさまの物もある
おばあさまも母も明治の人なのでともに100年から150年くらいは年月を経ている
そうだ服部夫人の物もある
しかもまだ現役で立冬が過ぎたこれからの出番は多い
始めて結城に行ったのは60年くらい前になる
亡くなった作曲家の服部正ご夫妻と、今だお付き合いをしている窪田稔と彼の運転する車で出かけた
まだ稔は慶応義塾大学の学生で「マンドリンクラブ」マネージャーをしていた
奥順の息子の順もマンドリンクラブに在籍していて、結城紬の商いの後を継ぐ人と教えられていたが、チャ子ちゃん先生はそのころは、全く着物に興味はなく、何となく面白そうと付いていった
結城に着くと見渡す限りの桑畑、耳を澄ますと「かっか」という音が聞こえ、「あの音は何か」と問うと後から見学するという話になった
結城を訪れた目的は「服部夫人が結城紬を購入する」ということであったが、着物に興味のないチャ子ちゃん先生は蔵の多い古い街並みや桑畑に入ってぶらぶらいていたが、おやつの時間だと呼ばれて勇んでみんなの傍に行く
「チャ子ちゃんその前にこの中から私にいいと思うの選んで」と服部夫人。その時順のお母さまがお召だった、濃い緑の地色に黒の大胆な縞の紬に見とれていて、生半可に「これいいわ」と白地に有栖川の絣(何十年後にわかった)を勧め、いそいそとゆで饅頭のおやつの方に手が伸びてしまった
服部夫人は「さすがね私もこれがいいと思った」と気に入って購入、それが夫人がなくなる5年前に「この結城覚えているでしょう?着て頂戴」と今考えると形見分けのような感じでいただいた
それから10年後今度は結城紬の本格的な取材に訪れたのだが、桑畑はまだ健在で、養蚕農家、糸繰、絣くくり、染、機織り、整理などこの時は3日間泊まり込みでいろいろと見せていただいた
そしてその真心がこもった手作りの味に惹かれ、着物ライフの基本に結城紬を置いた
その後全国の産地を取材して歩き、それぞれの場所にはその布が必然であったという歴史背景もあり、その土地の文化を知るには、その地に誕生する着物を着ることでより理解が出来るということが分かり、様々な着物に手を通した
そしてまた結城にいま戻ってきた感じがする
老いた体には春は大島紬、秋冬は結城紬というのが体が喜ぶ。思えば母もそういう着分けをしていたように思う
姉が大島紬の振り袖を着て茶事をしていた写真が遺品から出てきたが、晩年は結城紬でお稽古の場に座っていた
着物にもそれぞれ季節があるのだなあと思う
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