キリスト教徒に残虐の限りを尽くした「サウロ」があるときから(詳しくは聖書を)改心し「パウロ」と名を変えてキリストのおしえの普及に努める話は新約聖書に出てくる。その中で人々が動揺し右往左往と落ち着かかないとき「心の腰に帯をせよ」と人々に解く
衣服に腰帯をつけることは洋の東西を問わず、更には古代衣裳にも帯はどんな形でも存在している
帯を腰に締めるという動作は、心の安定を保つことがすべてと、人類に共通しているということだろう
帯が主役ではなく腰が主役、腰を安定させるには帯が必要であると説いている
他国の民族衣装を見ても帯の役割が非常に高い地位を見せている
日本では帯を締めることは「丹田」に力を注ぐということで、特に男の着物や袴は丹田重視の着付けをしている
「肚が座る」ということは丹田で物を事を考えること
少しずつ少しずつ今までの歴史がひっくり返り、信じていたことがすべて反対であったという時が近づいてきた
そういう時人々は慌てふためき騒がしく動き回るか、自分の殻に閉じこもり真実を見ることが出来なくなってただ震えて過ごす人が多くなる
そういう時このペテロの詞「心の腰に帯をせよ」が生きてくる
そういえば日本の男たちが着物を着なくなってふにゃふにゃ男が増えてきた。これはやはり帯を締めることによって知る「丹田」のありか、「肚」で考えるという思考の在り方が消えているからだろうか
さらに言えば
成人式ではその帯をアレコレいろんな形に結ぶのがはやっているが、「帯」の役目の本来の姿を伝えられているのであろうか
なぜ人は帯をつけるのか、その答えをペテロは言っている。動揺せず、自分自身にいることの大切さは「心の腰に帯をつける」
日本人は現実にも心にもいつも腰に帯をつけて、自分の軸を守って生きていた(そうありたい)
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