チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

家系図

2022年11月17日 06時36分33秒 | 日記

自分自身のルーツがわかる「家系図」は一度は書いてみると自分自身の性癖がよくわかる

ある勉強会に行ったとき、必須が家系図を作ることだった

市役所に問い合わせたら戸籍謄本はすぐとれる。しかしそれ以上の先祖までは謄本からはわからない

戸籍謄本はその当時は4代先まではわかった

しかし今は祖父母の代で終わっているらしい。(その理由は先祖が着歌人ということを隠すためと聞いた)

4代先となると明治を超えて江戸となる。さらにその先はそれぞれの家の本家の仏壇の中、または寺にある、その寺が火事で燃えて無くなったとか、戦火で焼かれてしまったという話もよく聞いた。また本家が没落して、仏壇までなくなり全く自分のルーツを突き止められない人もいた(その方はとても暗い感じを漂わせていた)

かと思うと親戚中の名簿が分かり、あらためて新しい親戚が増えて、血統の強いつながりに目覚めた人もいた

その時お墓の大切さも身に染みた

お墓が欠けている、お墓が草にうずもれている、あ墓の文字が分からなくなっている。お墓に苔が生えている

などなどの方がたは、不思議なことにそのうちの主が病に伏したり、家族がバラバラになったり、家族の和が失せていたり、また子宝に恵まれなかったりと、つまり体にお知らせが来ていた

 

嫁に行った女は嫁ぎ先の一員となっていくのだが、自分の性癖を見るには実家の家系図も参考になる

不思議なことにうまくいっている家族は墓守りがきちんとしていた

 

風水ではその墓の中にある骨を時々取り出し、綺麗に洗って天日干しすることで、更に家運が上がるといわれている。実際にそれを実行して盛運になった家族もあった

 

見えない世界のことは見ないことにする、今見えることをきちんとやる。そういいう考え方もあるが、この身は先祖の存在なくしてこの世にはいない。自分の血筋は把握しておいた方が、いろんな問題の解決にも役立つ

 

というわけで本日は父の命日なので墓参り

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

着物が繋ぐもの 506

2022年11月16日 09時05分07秒 | 日記

きものの表現力はやはり半端ではないな

昨日書家の「島本恵理」さんと他の陶芸家たちとの合同展に新宿柿伝ギャラリーに伺った

島本さんの書は優しく、しかし確固とした軸もあり、筆を一番先に落とした時の力強い筆跡に何か覚悟のようなものを感じた。その書に他の表現をまじ合わせることで、更に書が生き生きとしていた

初対面だが、着物姿が楚々として美しい方

その着物を染めたのが東京手描き友禅作家の上田環江さん。表現力抜群の方なので、その島本さんのアートの書を着物と帯に手描きしていた

アートの書を崩さず、しかもご自分の手法も静かに取り入れ表現している

その着物を身にまとったとき、書が曲線になるのでさらに動きが出る。お二人の気持ちが溶け合い、新しい生き物になっているのだ

これぞきものの醍醐味だだろう、平面から立体へ、そしてその着物を着た人が様々な所作で動くことで、立立体になる

書も着物もそのままでは「平面」

一緒にすることで無限の空間が生まれてくる。着物ってすごい!!

 

書をそのまま着物に書き映しても感動はない、書の表現、着物としての表現、二つがさらに新しい先を見せることで、人の心を踊らせる強さが生まれる

 

きものや帯に物を描くことで、物も着物も生きてこない場合が多いが、今回は違った。ということは友禅の色の刺し方、地色を載せる素材の選び方、そのすべてが整ったとき、着物は全く独自の魅力を発するのだ。こういう感性の着物が巷にあふれると、着物の楽しみ方も格段と深まる

やはり着物ってすごいよ

お互いにご自分の「技」を競い合っているのだけど、譲り合っているわけでなく、かといって支配し合ってるのでもなく、融合し調和させて、新しいものを生み出している

なんだかこれからの人の生き方を示唆しているようにも感じた

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七五三の祝い日

2022年11月15日 08時58分07秒 | 日記

最近は親の都合、その他の人の都合で「七五三祝い」をし、記念写真を撮っておわり。写真スタジオにはレンタルの祝い着もあり、また着付け師やヘアーメイクのプロも控えている。終わったらレストランで祝い膳。神社にお参りする人もいるが、最近は少数

さて

この七五三、陰陽の数字合わせから来ているのだが、偶数は陰、奇数は陽、という考え方、陽の数字の年を祝っていく、そうするとエネルギーが高まり子供が元気に育っ、というものだったらしい

三才で髪を整える「髪置の儀」、五歳は「着袴の儀」で袴をはく、七歳で大人と同じように帯を結ぶ「帯解きの儀」古代は7歳までは神の子として育てていたので、7歳の祝いが済むと大人の仲間入りとなる

 

三才までは男の子も女の子も赤ちゃんから幼児になっていく過程なのでまず髪を整えて、男女ともに祝う

五歳は幼児から男の子になる、その為袴を身に着け、親戚知人一同に「この子が家の跡取です」という披露も兼ねる

七歳は女の子、大人と同じような装いをして子供から大人に入る心がまえ植え付ける

 

こういう祝いはもともとはその子の誕生日に行われていて、氏神様に成長した姿を見せ感謝をささげ、親戚知人を呼んで、これからも見守ってほしいという願望の祝いでもあった

 

11月15日に一斉に行われるようになったのは、将軍徳川綱吉の子「徳松」の三才の祝いを11月15日に行ったのが始まりと言われている

旧暦の11月は「一陽来復」の月。また15日は満月。ということで、武士の子は特に将軍の跡取は大事に育て上げねばならず、月と日の最高の日を祝い日にしたのであろう

その習慣が一般的になって今に至ると伝えられている説が一般的

 

また子供の魂は7歳まで霊界に戻りやすいという言い伝えもあり、丈夫に人間世界で育つことを神に祈った行事ともいえる。昔はそれだけ子供の早世多かったのだと思う。特に世継ぎが大切な皇室や将軍家、大名家は男の子が育ちゆく過程に心を込めたと事であろう。七五三の祝いは親の愛が込められている

 

氏神様との付き合いも神様に対する畏敬の念、親しみのかかわり方も親と子で分かち合うという目的もあったことでしょう。

赤ちゃんから幼児になる3歳は男女ともにお被布を着てまだ性別をはっきりさせないという意味もある

5歳は袴を着け、家紋のついた紋付を着せて、家を感じることを優先に

7歳はお嫁さんと着物の着方が同じで、「おんな」であることの意味を少しずつ教えていく段階に入ることのだとか

 

武士の家庭が人口の半分を占めていた江戸からこの七五三の祝い事が一般的になり、大正時代に入って全国的な祝い日になったよう。今では15日に祝う家庭も少ないので「きものの日」と言われているらしい

子供の成長過程を筋目筋目で祝った日本の伝統行事は、人を大事にする行事だと思うので、続いてほしい

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸の風水

2022年11月14日 08時23分34秒 | 日記

あらためて思う

108歳まで生きた天海和尚、家康の時代から家光の時までに江戸の風水を完成

あらためて江戸城に立つとそのすごさに驚愕する

風水の中で最も力を呼ぶ「四神相応」という配置がある。つまり北の玄武、東の青龍、南の朱雀、西の白虎

京都の御所もこの配置で2000年栄えている。天海は天台宗で比叡山にいたので、この配置は骨の髄にしみわたっていたのだろう。

この配置は東西南北が崩れていてもよい、自分が座り顔を向けているところが朱雀、つまり目の前が広がっていればよい

机の位置などこの「四神相応」に倣うと落ち着くし、仕事も速やかに進む

「四神相応」が取れない場合は「背山臨水」でもいい。自分の背中を庇護し、前を広げる。戦国大名が座る位置は常に「背山臨水」であった。背中に屏風を立てていた大名も数知れず

江戸城の天守閣は背中は高尾山、前は東京湾、東に大川、西に富士山の流れをくむ大地。そして変化の激しい地に寛永寺、そのその気の通り道に増上寺で江戸の町の気を整え、更に平将門の兜や鎧、体の一部などを北斗七星で抑え、それらをまつる神社を建立、その上五色の不動明王を配置、目黒不動などその代表、その力によって、それぞれの場所に見張り番「見附」をおき、江戸の町に「魔」が入り込まないような配慮をした。

江戸が栄え、東京が中心になったのはうなずけるー--がいまこの配置が日々壊されている。東京から経済が文化が消えていく日も遠くない状況

 

何事も永遠ということはないので、其れもまた時代の移り変わりかもしれないと思う。そうやって人も時代も変わっていく、これがまた人間の営みなのであろう

 

ついでにあの江戸城の大奥跡は太陽が燦燦と照り付ける芝生になっていて、諸々のどろどろした女の戦いも、すべて光の中で穏やかに時が過ぎていた。松の廊下跡も今は鬱蒼とした樹木に覆われていた

それにしても、西郷南洲と勝海舟が救った江戸の町、お互いに敵視と勝海舟ていたら、フランスとイギリスの戦争の場になっていたやも知れぬ、風水の効力が300年は続いたのであろうか

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三十、四十代の人たちの活躍

2022年11月12日 08時56分22秒 | 日記

見渡すと30,40代の人たちの活躍が華々しい

振り返ると私達も40代が一番活躍したように感じる

心身共に活躍できる年なのだと思う。この時期に活躍できない人は一生うだつが上がらない

若い時は生意気でいい

その活躍は社会的に成功するというそういう表向きの活躍ではなく、自分が本当にやりたいことに精魂を傾けているということ

 

その一つにITの存在がある。大人たちの作った世界に入り込むには、いろんな手続きが必要だった。しかしITは逆に大人たちが入り込めない世界がある。そして世はIT花盛り。それをどう駆使するかで大富豪にもなれる。彼らの思考はどうインフルエンザ―させるかに知恵を注ぎ実行をしていく

だから職業を尋ねると「○○コンサルタント」という人ばかり、手早く稼ぐ方法があるので、そのやり方を教えるだけで生活が出来る。わからないことは、すべてパソコンの中に答えがある

 

年金生活をしている年配者が、自分たちが年月かけて培った知恵を、どう社会に生かしていけばいいのかが分からず、うつ病になってしまう人もいる。

レジタル世界の考えを取り入れたアナログ世界が最も新しい世界になるという思いが私にはある

どちらか一方に偏ると、船は沈むしかないから

双方ともに助け合う世界がこれから必要になっていくように感じる。そうすると国は栄えていく

 

30代40代の方がたの知識と、70代80代の人の知恵が一緒になると、豊かな人生をともに歩めそう

昨日は人との会話の中で、そんなことを感じた

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一喜一憂

2022年11月11日 08時41分01秒 | 日記

アメリカの中間選挙の結果、共和党が勝てば世界は変わるかもしれない

トランプ元大統領のおかげで、私達はいろんな学びをした

彼は信仰を持ってる、更に日本人の本当の魂も持っている気がする

それは

悪をつぶすのではなく、悪を排除するのではなく、光で悪を照らし悪を消してしまうという思考だ

大統領時代、軍を動かし悪を一網打尽に排除することもできた。不正選挙の発覚で軍隊を動かすこともできた

それを一切せず、悪が浮かび上がり、みんなが覚醒するのを待ったのだ。「待つ」ということは一番力がいる、一二三神事にもあるように、「悪抱き参らせて」という言葉が世界中に通用した。神を信じていなければそれはできない。「大統領はワシじゃあ―」と権力にしがみついていれば、アメリカのみならず世界中が滅亡の危機に立ったことだろう

トランプは大統領就任中の4年間、一切の戦争を仕掛けなかった

いつも戦争を仕掛けるのはアメリカで、あのパパブッシュ以来、アメリカが仕掛けた戦争は数知れず、その戦争で大儲けした人たちもいる。というのが今回分かった。明治以降の日本の闇も浮かび上がらせてしまった

日本そのものの存続も危うい日々だ

東京の不動産の多くは中国の富裕層の物、富の集まっているところは他国の人のところ。それが現実

神宮のあの美しいイチョウ並木を切り倒し、高層ビルを建てる計画、表参道のけやき通りの木も切り倒し、近代建築にするという。あの明治神宮の中にもソーラーを設置するというバカぶり

徳川家康と南光坊天海が作った江戸街づくりはことごとく壊されていく

風水師にとって江戸の風水は驚愕。ここまでしっかりと風水で吉祥地にしてしまった。しかし今それを壊す人びとがいる。江戸城の天守閣が焼け落ちたとき、江戸の町も火事で焼けた。将軍は天守閣の復元より、江戸の町づくりを優先。そしてその後も天守閣を復元しなかった

それが国を治める人の姿勢だと思う

 

アメリカの中間選挙も気になるところだが、日本の現状をもっとよく知って、明日の日本のためにやれるべきことを考えたい

 

明日の土曜日は、その江戸風水の神髄を探りに江戸城に赴く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

着物が繋ぐもの 505

2022年11月10日 08時57分21秒 | 日記

マスクをしていない人数より、着物を着ている人の数の方が少ない昨今

きものが当たり前の昭和40年代から、50年代にい入ると着物は買うもの、平成に入ると着物は売るものまたは捨てる物、そして令和に入ると「きものって特別な人が着る物よね」という感じになった

時代の移り変わりとはそういうものであろうか

アナログの時代はとっくに過去。と思いきや昨夜からインターネットがつながらない

前々から言われていたことだけど、大きな変化の前にまずはインターネットをつながらなくする、という話が出ていた。いまがそうなのだろうか?

きものは全くのアナログ、すべて手仕事。と言い切りたいけど、今やパソコンを駆使して紋柄を作ったり、生地の織方を決めたりする人も出ている。インクジェットで染める着物もある

そういえば、着物は常に時代の先端を行っていた

生糸の作り方も明治初期には機械で糸取りを始めた。手機で布を織っていたが、やはり明治には動力機が出来た。それはトヨタだった。糸取りは日産なので、車の大企業は着物作りから始まっている

西陣の帯つくりもジャガードが輸入されて、大量生産が出来るようになった。手彫りの型紙は必要ないのだ。しかし江戸小紋は手彫りの型紙を今も使う。もっともっさらに発達しパソコン型紙も出来てはいるが、手彫り、手染めにこだわる人が江戸には多い

植物染料で糸染めしたり、手染めしていたものも、化学染料の輸入で染料の調合が楽になったし、いつも同じ色を染めることが出来る

こう考えると明治維新は日本の産業革命でもあったといえる

その為に人は、ものを多く持つようになった。多く物を持ちたいという欲求がまた機械化を進める。これが豊かな文化と思っていた。そして究極がインターネット、世界中たちどころにつながる通信網。昨夜からそれが切れている。何かを知らせたくないという考えが、どこかの人たちにあれば、これを牛耳っている人たちの手で、民衆を統制することが出来る。

 

其処へ行くとアナログは一人一人の個性が光る

きものを作り上げる段階では、まだアナログの人たちがそこかしこにいる

そういう人達は自然を相手に豊かに暮らしている。つまり足るを知る心をもってモノづくりをしているからだ

チャ子ちゃん先生はそういう方々に会える立場にいて、自分自身をいつも謙虚に持っていくことが出来る。彼らが私の人生の師匠だから。

きものはアナログ作業に支えられている。だから尊い

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出雲語録

2022年11月09日 09時55分37秒 | 日記

出雲で日本紫根を栽培している舟木清さんは本業は木工家

欄間や神棚とか精緻な木工の数々を仕事場で拝見

「この仕事は家代々ですか?」

「いや私が始めた」

「始めたきっかけは?」

「好きだったから」

 

この地は古代出雲が栄えたところ、銅鐸が多く発掘され博物館に収められている

発掘当時いろんな研究家が訪れ、この地はににぎわった

その時弥生時代の食べ物を作ってみようと思った

「それを研究しているとき、紫草の存在を知った」

「栽培してみようと思われたんですか?」

「そう種がないので、種を探していたら日本ってすごいね、そういう種を地道に保存しているところがあった」

「その種は弥生時代の物だったのですか?」

「そう古代種だね」

「それで?」

「初めは失敗直植したからね、まず土壌作りからやり直し、自分の持っている畑に畝を作り、種は二つず小さなポットにうえて、芽が出たら畑に移した。古代はきっと直植だったと思うけど、今と土壌が違うんだな、肥料は腐葉土、あとは水と太陽そして風」

「そうしたら芽が出て葉が伸び白い花が美しく咲き、我が子のように愛おしくなったのですね?」

「そうそう」

2008年から栽培を始め、いろんな偉い方から紫根染を求められる、むらさきは高貴な色なので神事に欠かせない

ああしろこうしろと細かい注文を受け精魂尽くして作って奉納

「お代は?」

「なんもないね!」爆笑

「種を欲しがる人も多いでしょうね?」

「種は誰にでも渡さない」

「広まらないではありませんか?」

「改良されたものが広まったら、本物が残らない」

「確かに」

 

さて次は

お父さんと4歳の子の会話

四歳児「ちゃこちゃんせんせいだいすき」

父「どこがいいの?」

四歳児「お土産もらったでしょう?」

父「それから?」

四歳児「かわいいもん!おかおがやさしいでしょう?」

お後がよろしいようでー-

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出雲紫草

2022年11月07日 18時05分58秒 | 日記

出雲紫草は質がいい

とかねてから噂に聞いていた

その栽培の主は「舟木清」さん

紫根染めのしぼりの着物を染めている寺田豊さんにご紹介いただき本日お尋ねした

出雲は快晴真っ青の空の下美しい斐伊川の流れを遡りながら、色付き始めた山並みを眺めているうち、「うん?ここは何か見覚えある」

そう、あの夥しい銅鐸が見つかった山の近くだ

 

舟木さんのお話を聞いたら、まさしくその銅鐸に縁あって紫根の栽培を始めたのだという

銅鐸は弥生時代のもので、文化庁や考古学者たちが入れ替わり立ち替わり、この地の研究を始めた、その時船木さんも参加して、その当時の食べ物や家の作り、また衣類のことについて研究を重ねた時、出雲風土記の中に、この地は紫草の産地であったことが書かれていた

薬草でもある紫草を栽培してみようと思い、種を探して指定された畑に蒔いた。しかしその時はうまくいかず、自分の畑に撒いたら勢いよく育ち始め、土壌作りから本腰を入れて栽培を始めた

それが2008年のこと

その後試行錯誤しながら栽培を続け今では日本一の紫根の誕生

紫の色は紫根で染めるをよしとする。タネを大事にしているので種の改良を目論む人には種が分けないという強靭な姿勢

日本古来の種を大事にしたいのだ

万葉集に詠まれ、神事の色となり、紫根で染めた色は高貴さを表現する

正倉院御物の中の紫根染めの色を再現するためには舟木さんの紫根出ないとあの色は出ない

 

染色家たちの話も取り入れながら舟木さんは紫草を毎年栽培する

根をしっかり育てるのは、葉が美しく育つ環境を作らなければならない、植物の気持ちを汲み入れながら土の開墾、草の間引きなど注意深く作業をしている。

見えるところが美しくないと、根も美しくない

根を張らせるには太陽と水と風

時期というものがあって、焦っても、怠慢になっても物事は成就しない

 

人の生き方も同じだなあと思いながら取材を終えた

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神有月

2022年11月06日 16時34分24秒 | 日記

旧暦の11月の出雲は、全国の神様が出雲大社にお集りで会議をなさっていらっしゃるそうだ

そういうこともすっかり忘れていて、出雲に滞在中

でも大社に行こうと出かけたら、とんでもない人の群れ、皆さま千家の代謝にお参りをするが、私どもはいつも北島家。ひっそりとしていて空気感が違う

神様のことはよくわからないが、こちらで静かに祈りを終え、古代出雲歴史博物館に行く。

いつも思うのだが、ここの博物館には、弥生時代の「銅鐸」が600個近くある

しかもこの銅鐸地下30センチのところからの出土

戦争のためではないらしい

土地の神様への贈り物か

はたまた敵の来週に備えたものなのか

まだ全く解明されていない

しかも全部同じ形、機械もない時代どうして寸法も同じものができたのだろうか?

いつも

この部屋でその時代の不思議を教えてもらおうと思うのだが、まだ解明はない、それにしても不思議な銅鐸だ

いつかわかる日も来るのだろうが、古代の謎解きほど心躍るものはない

古代人が今の私たちに何を語ろうとしているのだろうーーーと、夥しい銅鐸が整然と並べられている場所で、ぼとしているのも変に至福

千家の大社には人が溢れていても、この博物館は静か。古代にふけることができる

 

さていつものことながら、女将さんのいく、すーパーについていく

柿10個300円、蜜柑一箱450円などなど、羨ましい値段にあれもこれもと籠に入れてしまう。女将さん大笑い

出雲二日目の報告

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする