昨日は蚕の研究所に新所長の表敬訪問をしたのだが
お世話になったというより、ともにいろいろ研究しあった研究員が今年定年という
もうこの地でお会いすることもないので、今日は特別なところをご案内します
という前置きでご案内いただいたのが「霞ヶ浦」
「ひやー大きい、美しい、気持ちいい」
この霞ケ浦の端の方は見たことはある、江戸小紋を染める工場があり、先代の竺仙の社長に案内されたが、全体の霞ケ浦を見たのは初めて
秋の日差しがさんさんと水面に注いでいて、樹木に囲まれた緑の色が果てしなく続き、空は真っ青に高く、時々これも真っ白な雲が悠然と浮かぶ
「うわー」もっと言葉がないの?そうないのよ。と思うくらいに胸を広げ空気をいっぱいに吸う心地よさ
さアー次に行きましょう?
うん?ここは前菜?
「この道は昔滑走路でした」
「?」
「あの小高い丘の側面には大きな防空壕がほられていました。今は緑が美しいです」
「うん?」
「あの防空壕をめがけて直撃したのが昭和30年の3月土浦の空襲です」
「町の方たちが入っていたの?」
「いいえ予科練の生徒たちです。全員死亡」
「アッ!あの七つボタン―――の、そうだ霞ヶ浦だわ」
なんと間ぬけの答えを言うチャ子ちゃん先生
そうだあの歌の歌詞の中に霞ヶ浦という文言があった!
着いたのは
「海軍飛行予科練習生」の予科練平和祈念館。15歳から20歳までの少年たちの軍人の予備校、みんなあの制服にあこがれた、今見てもかっこいい、合格になるのは優秀な少年たち、学習科目の中には敵国の英語の授業もみっちり、国語、漢文、理科、数学、剣道、柔道、書道、裁縫もある。何もかも身辺は自分で出来るように訓練されていた。その他の時間は体を鍛えるための体育、そして飛行機の操縦
教科書の解説では今の大学の一年生くらいの学力だということだ、10代でこの学問、「月月火水木金金」といわれるくらいみっちり鍛えられていた。たまの休みに行くところが「餡みつや」お汁粉、大福をほおばっている時の幼い顔が純粋、素直
戦争末期彼らは飛行操縦も未熟なまま海に散った
筆で書いた遺書や家族にあてた手紙の文字も文章も凛々しい
「国を守るため」「一億人の命を守るため」という覚悟が記されていた
こうやって命を落とすことが国のためなのか
厳しい鍛錬の元、自分自身を磨き上げたその命を、生きて国のために使うのが本当の愛国心でなかったか
日本は大人が間違った戦争したと臍を噛む、このような優秀な人材を「回転」や「特攻隊」で散らしてしまった
この国の体質今も変わらじ
今宵は「チャコちゅうぶ」20時から