チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

きものを識れば日本が見えてくる 6

2024年01月20日 08時52分52秒 | 日記
山崎斌さんは、明治の末の始まった化学染料の急激な普及に対して、それまでの植物染料の実態が消えていくことを憂いた
輸入されたばかりの化学染料は、まだ未知数なところがあり、きちんと計算が立って、毎回同じ色が染まるという技術になってはいなかった
それだけに植物染料との手順の違いだけが染をする人にとって、簡単に色が染まることの喜びが強かったのだと思う

その喜びが色に移り鮮明な今でいうビビットな色に多くの人が喜び勇んだ
だが
それを見ている山崎斌さんは、日本の植物染料での色合いが消えていくことに危惧を抱き、平安時代にまとめられた染織方法を実現し、自然を壊さない自然からいただく色の再生を試みたのだ
化学染料との違いを表すために、植物染料で染めた色を、技術を「草木染」という名前にして商標登録をした

今では「草木染」という名前は一般的になっていて、誰でもが使える商標だ
これは山崎斌さんのご長男「山埼青樹」さんが、商標の権利を放棄し、「みんなで使う名前にしたらいい」ということにしたいきさつがある

「一子相伝」という伝統の思考を山崎家はかなぐり捨て、みんなで美しい色を追求したいという思いを広げた
それもあって、草木染を生業にしている人は多い

化学染料も日本人の智慧が結集され、誰が染めても確実に同じ色が出るという段階になっている。植物染料により近い色も出せる
がしかし、自然が醸し出す色の波動においては、草木染にかなうものはない。これはきものを身に着けているとより鮮明に体が反応するのでわかる。つまり細胞が喜び元気になる

そして植物はきものやその他の染織によって、自分の命を再び生かすことにもなっていく。これが延々と続いた日本人の智慧なのだ
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風に向かって立つ

2024年01月19日 08時27分00秒 | 日記
今までの人生で「首をくくりたい」と思ったことのある人は多いと思う。とことん打ちのめされたとき
人は逃げる、またはその不幸を全部外部的なものとして責任逃れをする
しかし逃げても逃げても事は解決しない

海で嵐にあったとき荒波に向かっていくと助かるのだと、漁夫さんに教わった
どんな高波であっても、その波に向かっていると助かるけど、逃げると波に巻き込まれると教わった

それ以来、難問が生じると丹田に力を入れ率先して風に向かう。一波越えて、また超えて、更にまた波こえて、人生ってサーフインそのもの

しかし
肉体を持つ者は幾度か超えた波を忘れて、また同じような波を引き寄せる
これは徹底的に
「どういして今こう言う状況になったのか」
を検証しないことにある

とことんの検証を怠っていると同じような失策がやってくる、前より大きい失策だ、またそれをいいかげんにしておくともっと大きい波がやってくる。そのうちその波にのまれてしまう人もいるだろう
つまり津波のようなものがやってきてとことん根こそぎ何もかも失ってしまう。もしその時命があればまだ
「あなたは生きてやり直せます」
というご神示だ

とことん自分を問い詰め、解剖し、自分自身の癖を直した人が生き生きと生活を始めて、みるみる裕福になっていく姿を何人も見ている

自分自身の生き方の癖を前世のトラウマという方もいらっしゃるが、それで片づけているうちは、本当の解決にはならない
360度いろんな角度から、どうしてこういう状態になったのかを、ノートに書き連ね検証をし、納得理解することで一挙に開放に向かう

その時は自分自身の問題として立ち向かうことが必要かも、そして大切なのは「自分を責めないこと」

どんな苦難も自分自身で解決できないことはない。これが宇宙の法則
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きものを識れば日本が見えてくる 5

2024年01月18日 07時42分01秒 | 日記
きものは着るものそれ以外の何物でもない、日本人はきものと洋服を上手に着分けている民族なのだ
と簡単に思っていた時
新宿の伊勢丹百貨店で「万葉の色を染める」というブースを見つけ、そこに吊り下げられた布の色の美しさに惹かれふらふらと会場に入った
そこには年配の品のいい女性と、羽織袴の文士風の年輩の男がテーブルに座って談笑をしていた
入場者は一人チャ子ちゃん先生だけ、そこに近づいてきた男は、万葉数のことをあれこれ私に質問してきた。そしてその答えに対して、注釈を加え、万葉集の中には植物染料のことも多く歌われているのだと解説した

植物染料という言葉も初めて聞く
その植物染料からどうしてこんな美しい色が出るのかという疑問、そうすると、一つ一つテーブルに置かれた染料の素材を持ってきて
「この根は赤根草の根だがこんなきれいな茜色が生まれる」
これは紫根で染めた紫、これは黄肌で染めた黄色と説明を受ける。しかも茜は血流をよくする漢方、紫根は痛みを取る、黄肌は傷を和らげる
「色を出す植物のすべては漢方でもある」

こんな話今まで聞いたことがない
しかも私は腎臓とか気管支炎を幼少のころ煩い、それを母がすべて漢方薬で根本から治してくれたという経験がある
そのことを告げると、更に色の説明に力が入り、こちらはますます「万葉色」の虜になっていった

テーブルに座って居た婦人も加わり、その婦人は男の染めた糸を布に織った人だという、お二人は無知な私の質問に丁寧に嬉しそうに応対してくれた
男の名は山崎斌、婦人は上田光乃さん

山崎斌さんはもともとは小説家、島崎藤村の弟子で、若山牧水の親友これだけ聞くともう無条件に「ご尊敬申し上げる」になってしまう文学少女
一方の上田光乃さんは華族女学校のご出身、ヴァイオリンの名手でもあり夫とヨーロッパ暮らしをして帰り、ご自分で考案した織機を使って機織りを若いお嬢さんたちに教えているのだという

この出会いがチャコちゃん先生を着物に向けた
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太陽瞑想

2024年01月17日 08時25分42秒 | 日記
お天気がいい朝は必ず太陽を霊気でかぶり瞑想をする

瞑想は「TM瞑想」でこの瞑想を勧めてくれたのは中野裕弓さん。富士本栖湖の合宿の時東西のベルリンの壁が落ちた日で世の中がこれからがらりと変わるのだと二人で話し合った

瞑想はいつでもどこでも心落ち着けることができて便利な自己管理法だと思う
そうかといって年中実行しているわけではなく、まあいいかげんだ

自分自身がよくわからなくなると、しっかり瞑想して落ち着かせる
そうすると回答が出るのではなく、その不安の思いを流すことができるのだ
ここのところ輪島の親しい人の安否がわからず、ふっと思いが沈んでいくことがある。そしてその文化財の消失に対しての憤りや寂しさが湧いてくる、そういう時座って瞑想すると落ち着くのだ

同じように瞑想状態になるには、森を散歩するというのも手かもしれない、喧騒の中を歩き回るというのもありだ、一生懸命モノづくりをするというのいい

でも太陽はいつも味方で優しい、特に朝日は希望を与えてくれる
こういう朝日をビルが隠してしまう都会はやはりおかしい、日本人は月の方に親しみを持つ、しかし日本の国旗は朝日だ

日出国の民はもっと自信を持っていいのではないかと思う
太陽のように輝いて人々を平和にしていく力を持っているのではないかと感じている

太陽瞑想はただただありがとうとつぶやいているだけでも価値がある
紫外線がどうのこうのという人もいるが、太陽はやはり人々を明るく陽気にしていく
さて
きょうは「チャコちゅうぶ」20時から





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やりたいことは山とあれど

2024年01月16日 18時17分47秒 | 日記
これもやりたい、あれもしたい
やりたいことは山とあれど、思い通りに動けぬ
今動かなければほとんど日本から消えてしまう
しかしうごけない
原因はお金

日本から消えてしまうと心配する必要はないのかと思う
ある方が
「消えていくものはしょせんこれからの世界に必要でないからよ」
と見事に切って捨てた
そうかもしれない

しかし技術の存続はこの日本に紀元前から繋がれてきている
それでも未来に必要がないというのか
混乱しているチャ子ちゃん先生
未来に必要がないというものに未練がましくしがみついているのだろうか

根本は日本人の心根「だと思う
日本人は自然から様々なことを教わってき民族だ
その自然から教わったものが脈々と日常に生かされているのが日本国だ
自然から離れた時人は生きていけない
それを一番わかっているのも日本民族

そこから編み出されたさまざまな技術や文化は
やはり私たちの代で積極的に消滅させていいのだろうか
それは違うように思う

今回輪島朝市通りがまるでれレーザー攻撃にあったように木っ端みじんに朽ち果てた、あのベトナム戦争の時を思い出した
これでどうなったか輪島塗の素材や技術が根こそぎ失せた
日本漆の山もやられた

こうやって日本の文化資産が消失していくのも未来にたいしていらないものだと言い切れる?
輪島塗はどんなに熱いもの入れても、表側は冷えていて手で持っていられる
しかも殺菌作用もある
昔は便器の蓋も輪島塗にしたり、周りを塗りにして殺菌や消臭を図ったものだ
輪島に限らず日本人は日ごろ使うものに対して自然からの力をいただき、更にそれに手を加え美しいものにしてきた

そういうものつくりは必要ないのかな
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女正月(小正月)

2024年01月15日 10時26分00秒 | 日記
元旦早々からあまりにも恐ろしいことが立て続けで、この一年のことなど考える気にもなれなかった
それでも日々は静かに過ぎていく。あっという間に小正月(女正月ともいう)
いま日本はどん底にいる感じがする

そのどん底を支えていたのは、いつの時代も女たちだ
敗戦後の女たちの「和」の心は強かった。その女たちの強さはここ80年近くの間に薄れていっている
男と同じように肩を並べるのが女の強さだと思っている女が多い
それやっちゃあいかん

女は女の役割使命がある、もちろん男は男のそれがある
この「役割」を無視した生活を80年近くもやってきたら、変に女が強くなり、その反対に男が弱くなった

もともと男は弱い、骨盤にそれが現れている。女の骨盤の中には、子宮と卵巣があり、男の方は骨だけだ。女はこの骨盤の中で「育む」ということをする
このことを忘れている女も多い
我田引水になるが、この骨盤を巻く湯文字が女を強く優しく賢くする、とチャ子ちゃん先生は信じている
子育ては「育む」ことを本能的に感じている女の子は母が愛を注いで抱きしめるだけで、親の愛を感じるが、男の子はその上さらに耳元で、愛している、この世であなたが一番好き、と言い続けていないと、中年になるとにわかに弱い男になっていく
そういう男をいっぱい見てきた
だから男は徒党を組む、今の政治家たちの姿を見ればご理解いただけるだろう
「金と権力」にしがみついていれば人に愛されると錯覚している
愛された経験がないと人を愛せない、行政にそれが現れている

しかし女は自分自身を自分で愛することができるので、人の苦しみや切なさに愛を注ぐことができる

昔の女正月は、お正月忙しかった女たちが互いに自分の得意な料理を持ち寄り、様々な苦楽を話し合い、お互いを尊重しあってたのしく幸せに過ごす日だった。そしてまた家族を守る強さを確かめ合う。その時小さな子供も連れてきてみんなで愛を注いでいた
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初釜に座る

2024年01月14日 10時03分14秒 | 日記
思へば姉が亡くなって8年、初釜に招かれることもなかった
今回の初釜は12年ぶり「禮庵」という銀座ゆうき丸の中に作られている茶室で行われた
銀座のど真ん中に本格的な茶室だ、待合もあり、何より懐石料理がお手の物
11時半から16時までの長丁場 さすがに膝ががくがく
こちらは表千家、姉は裏千家だったので、微妙に手順が違うが先輩たち(年は私がダントツ上)に優しく助けられどうにか無事終了

始まりは一つだけど、それを伝える人たちによって微妙に手順が違ってくる、これは宗教に著しいかなと思いながらお手前を見る

キリストのいろんなたとえ話も、それを聞く弟子たちの容量によって表現が違ってくる、チャ子ちゃん先生はキリストのたとえ話が大好きで、その奥にあるその向こうにある真実を探す。それもまた自分流かもしれない
キリストは弟子たちの無理解にイライラしてわかりやすくたとえ話をするのだが、それがわかりやすくにならず、かえってむつかしい解釈になったりする

お釈迦さまもしかり、弟子たちによって広められているけど、王子であった釈迦が菩提樹の下で自分は何もわからない、本当に分からないと何もかも手放した時、少女が持ってきた飲み物を一口口に入れ、ああなんとおいしいこれなのだ、このお思いでいいのだと悟る、この話をどう伝えるかで私たちはそれぞれの容量の中で理解する

結局自分の器の容量でしか理解できない、それが人の世界だわ、なんて表裏の手順の違いにつらつらぼんやり考えながら座っていた

それにしても茶道はきもののためにあるような稽古事だ、裾裁きの衣ずれの音がなんとも心地よい、白い足袋が交差する軽やかさ、袖とともに動く流れるような美しさ、無言のうちにお互いに次の所作を決めあう合図、日本人の目で語り合う作法だ、心を込めた懐石料理は日本の自然の中からいただいた調理
それに使う什器や床飾り、日本人の美の結集が茶道にある

この日は市中祐佳さんの古代朱の輪島塗茶碗を持ち込みお薄を立てていただいた

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きものを識れば日本が見えてくる 4 プロローグ

2024年01月10日 15時56分28秒 | 日記
きものの着方、きものを着ての所作、きものとメイク・ヘアー、きもののコーデイネートはこの「見本帳」の撮影で基礎ができたと思う
撮影現場に立ち会い、きものにアイロンをかけ、さらに度の着物をだれに着せるか女優さんの雰囲気ときものの相性などを考察し、小物選びをすることも覚えた

(インターネットの調子が悪く次にします)

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きものを識れば日本が見えてくる 3 プロローグ

2024年01月09日 10時40分29秒 | 日記
後に雑誌ではなく染色用の「見本帳」(きものブック)の撮影をするようになり女優さんとの接点がさらに密になった
このきものブックはそれぞれの町にある「悉皆や」さんが購入し、そこに来たお客さんの着物の染め替えや、きものを新しく染めるという相談に使うもので、毎年春と秋用に作られていた

その見本帳を作るころは、専門の着付け師も養成され、当初は襟肩あきの空いたきものもあったが、そのうち本仕立てになり着せやすくなった
着付け師は主に花嫁の着付けができる人や映画や舞台の衣装部の人が手際よく着せていた、髪型も専門のヘアーデザイナーが登場し結髪ではなく緩やかなヘアースタイルが一般的になった
それでもまだ化粧は女優さん自身がなさる方が多く、いつの間にかヘアーメイクの方々の出番も多くなっていった
絶対に化粧だけは自分でする、という女優さんは大体ご自分の家で完了、スタジオに入ったときは顔ができているので、撮影も早く終わる

素顔でスタジオに入る女優さんは「美しい」やはり基本が美しい人が女優になるのだなと納得、素人と全然違う美しさだった当時はーー
「見本帳」は大体30枚から60枚の着物を載せる。女優さんは5枚ずつ着る。また見本帳はそれぞれ染色工場が出すので10冊以上は東京で撮影、京都の地元での撮影もある、女優さんの予定を抑えるのも大変だ、売れっ子はスタジオ掛け持ち

もちろん当時売れっ子の女優さんばかりなので、スタジオ同士の争奪戦もある
スタジオで女優さんのスケジュールを把握しているところもあるが、それがないところは、私たちがマネージャーと掛け合う。女優さんも、スタジオも、撮影者も私たち編集や印刷会社もいい収入になったな

やはり大女優さんたちの立ち居振る舞いは優雅だ、ストーリーを作り上げて話すと、すぐ表情が変わりしっとりとした雰囲気で着物のを浮き立たせる。ご自身はもとより、着物の柄をどう綺麗に見せるかというサービスも徹底している

何より驚くのは
ご自分が持参して来る足袋下着腰紐に至るまで清潔でアイロンがきちんとかかっている、そして丁寧なスタッフへのいたわり、ここで日本人の物腰の美しさに触れて自分の粗野な態度を反省する
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輪島塗の市中祐佳さん

2024年01月08日 11時10分49秒 | 日記
ついに行方不明確認名簿に市中ご夫妻の名が載る
ずっと連絡が付かないでいた
ただただご無事でいてほしい、心折れる

市中さんにお会いしたのはまだお互いに40代だったと思う
そのころすでに日展の審査員に名を連ねていらした
そういう方とは露知らず、あちこちのパーテイでいただいた一合升、それと新幹線のお弁当に「大人の休日」という木製の弁当箱のものがありその形がシンプルで気に入っていて、その二つを持って訪ね
「市中さんの古代朱を塗ってください」
「えっ!いいですよ」とニヤッと笑う顔を今でも思い浮かべることができる
チャ子ちゃん先生を連れて行ってくださった能州紬の鶴見専務の顔が赤らんだ

出来上がったという連絡をいただき輪島へ
その時は輪島塗に詳しい方から
「市中先生は日展の審査員をなさっているえらい方です、さすがにお目が高い」などといわれ、そこで始めて自分のとった行動にあきれ果ててるチャ子ちゃん先生

有名な輪島朝市の真ん中あたりに店を構える「市中屋本店」に、その日は恐縮した態度でしずしず入り
「なんということをお願いしたのかもう本当に申し訳ありません」
「いやー面白かったですよ初めての仕事でしたからね」

親しくなって聞いたら、私があまりにも無邪気に「これに古代朱を塗ってくださったら本当に美しいものができるわ」と古代朱の美しさを信じた態度に気おされてしまった!とかかかとわらって日本酒をおいしそうに飲まれる顔も忘れ難い

その後は一気に仲良くなり、能州紬の仕事で門前町に行くたびに輪島に一泊して、輪島塗のことをいろいろ教えていただいた
輪島塗は日本漆を使う、更に古代朱はもう先祖から脈々と受け継がれた漆で、この先其の材料がどうなるかはわからない、塗りの現場を見せていただくうち、私がお願いした初期の注文がなんと失礼にあたることかを思い知った

無知の怖さ、恥ずかしさ
ある時は今は亡き大内順子さんと輪島に行き市中さんと一献を傾けた。その時大内さんが、一人盆が30脚欲しい、と、作るには日にちもかかり大変な金額になる、それではねと市中さん
「いいところにお連れしましょう」
と行った先が輪島の骨董費やさん、ここだったら数もそろうし値段も手ごろ
ということで私たちはあれこれ選び、ちょうど寺を閉めたところから出てきた一人盆見つけ選別に入る

そこは塗りのプロ市中さんが手早く選びしかも値段の交渉まで
その店の親父さん
「あんたらすごいよ、こんな偉い人連れてくるんだもの敵わないよ」と苦笑

その後私は古代朱に取りつかれ、棗、茶碗、文箱、書類入れ、お盆、小盆、湯飲みなどなどせっせと作って、修理して頂いたりして、輪島に行ってはいろんな話に花を咲かせていた

「あの書類入れやはりつまみが欲しいの」
「いいですよいつでも送ってください」
「持っていきます。お花見ができるころ」
「いいですねえ」

この会話が11月の末だった
生きていてほしい!花見で一献市中さ―――ン
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