さて、後法興院記の記載から様々な想像を展開したが、間違いがあったので訂正を入れて置きたい。
この、後ろから二行目に登場する「九里四郎次郎」(員秀の事と思われる)、
私のコメントでは「座布団」の関係のことか?と書いていたが、これは大きな誤りであったと思う。笑
「有蹴鞠、飛鳥井宰相、左小辨伊長、極臈資直、藤蔵人、興基僧都等来、九里四郎次郎進圓座、廿枚先日便宜時令所望了」
と、全部が関係あったようで、コメントに詳しく自閑様が書いてくださった!
それを基に、書かせていただくと、
この蹴鞠のメンバーは
飛鳥井雅俊 1498 参議(宰相の事)
勧修寺尚顕 1501 左少弁 確定
甘露寺伊長 1501 右少弁 確定
富小路資直 文明16年(1484年)六位蔵人兼左近衛将監に任官。蹴鞠・医学にも通じたとwikiにあるのでほぼ確定
となる。
こんなすごいメンバーに誘われた九里四郎次郎、どうやら近衛政家に何か便宜をはかり、その時に何か欲しいものはないか(仮)と聞かれ、蹴鞠がしたいと答えたようである。
彼は、無事に蹴鞠は出来たのだろうか。
飛鳥井雅康に頂いた「蹴鞠五部抄」を読んでいたはず。
是も興味(憧れ)があって、何かの折に所望した物だったのかもしれない。
極臈資直の「極臈」は、↓
六位の蔵人(くろうど)で、最も年功を積んだ人。一﨟。ごくろう。(コトバンクより)
また、もう一つは和漢会、私の想像では漢方に関する記述がいくつか見られたため「和漢方の会」だったのだが、
実は下記のようである。
「月次和漢会とは、漢詩と和歌の会だと思います。」
漢方ではなく漢詩と和歌。
そういえば、医師の名が見えないかも。(笑)
===*===
近衛政家と丹波親康のことが書かれていた小論があったので、ココに載せておこうと思う。
http://jsmh.umin.jp/journal/45-2/168-169.pdf
一方当時としては、その意味が漢詩と和歌に親しむ方がいた中での会、サロンみたいに縁あり好きな方が集まる会だったのでしょう。
文字からの想像がその物との接点により直感も変化するんだなあとしみじみ人間の面白さもかんじました。
多様な考えを直感的に持つ方々が一つの事に、色んな側面からその時代に合ったまた妥当な解釈を探す作業ってとても興味深いですね。
和歌まさにそれが作者に普通に許された世界であり、その後はカリカチュア的にもなる可能性も。自分の想いを表現する大事な文化でしょうし、当時を理解するにはとても良いツールかもしれませんね。ドラマの中にもありましたが、どの歌が好きか?でもその方への興味を惹きつける要素になってそうですよね。
文化風習と当時の常識も入ってくるので和歌や漢詩を好んで集った方々の様子が見えてくると面白いですね。
足利学校とか藩の塾とか寺子屋とか自然にそういう流れになりそうですよね。集まる方々にも注目すると見えてくるものがあるでしょうね。
私の勝手な思い込みでした。
失礼しました。
近衛政家、漢方は使っていたので、すっかりと…(笑)
いま、源氏物語を読んでいるので、又シンクロしていましたね。
それでは又お邪魔します。
拙句
オレーオレ若草にほふスライディング
このような戦国時代にも源氏物語の写本を作っている、という不思議。
この源氏を持っているかどうかが、大事な事だったのですね。
ただの、恋愛物語ではなくステイタスを顕す指標のような…
少し前にイギリスのジェーン・オースティンを読んでいたのですが、1800年代に書かれた物語と似たようなものが、すでに日本では1008年にもうできていたことに驚きます。
人間感情を表現することは、大変高度だと思うので、紫式部とは稀有な存在だな~と思い始めました。
私、恥ずかしながら、まだ読んでおりません!
あまり恋愛ものが好きではないこともありますが…(笑)
葉室麟の男の友情の方が好きかな。
Jikan様は、どなたの訳の源氏がお好きでしょうか? 参考にしたいです。