九里 【九里】を探して三千里

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九里の元祖は「木村氏」であった。(二回目のトライ)

2019-09-04 | 九里【只今の状況・まとめ】

また、木の国・紀伊の古代大姓「紀」氏に因んだ木村氏もある。
 たとえば、近江国蒲生郡木村発祥は、紀朝臣成高の後裔だ。また有力な木村一族に近江源氏佐々木氏の流れがあるが、これも紀氏に関係している。佐々木氏の祖源成頼から六世の末佐々木成俊が、近江国伊香郡木村に因んで木村を称したが、祖母が紀氏の出身であったこともあって、佐々木の姓を木村に改めたとされている。のち、佐々木宗家が京極・六角と分かれたので、木村氏もこの両家に分かれて属した

===*===

上記の情報で、「伊香」「成俊」が一致した。
また、私の祖母の遺言である「九里は佐々木の出 神社の方」がピタリと当てはまった。

源成頼の六世末 佐々木成俊 (祖母が紀氏)
佐々木成俊の八世末 九里太郎経久(蓮忍入道)であり、富木蓮忍でもある。

はずなのだが、そうなると系図と年代が合わない。。。。
では、富木ではないのかもしれない。

1300年位に経久になってしまうのではないか?
変だ、変だ。と以前も言っている私。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/21ca1eda53cea162452dcbbb5e39f86a

他の系図をチェックしてみると、源成頼ー章経ー経方ー季定その弟成俊
なので、3世末となる。そこにも成俊が存在していたのではないだろうか。

しかし、他の系図では六世で、合っている。





しかし、富木常忍の持っていた市川市の若宮の場所が、後に深尾氏に宛がわれている点、は紛れもなく富木氏とのつながりを示している。

系図の代が多すぎるのだと思う。
どこかで兄弟が親子になっているのではないだろうか?成俊は佐々木季定の兄弟説をとると1050年1080年代生まれである。
経久の兄景経は1247年に鐘に銘が残っているので、だいたいこの年代には生きていた人物である。

まず、様々な系図を検討することと、一人ずつ検討をすることと思われるため、それに集中してみたい。


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2 コメント

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Unknown (真野です。)
2019-10-21 12:53:01
真野助宗の子は真野頼包で、その真野頼包の娘・青柳は、大坂の陣にて討死した木村重成の正室です

1615年1月7日、真野青柳(大蔵卿局の姪、真野豊後守頼包の娘)を正室に迎えた。


大蔵卿局・大蔵局(おおくらのつぼね)は浅井長政の家臣だっとされる大野定長の妻で、茶々の乳母であったとされる。

大野家の出自は丹後・尾張・近江など諸説あり、不明瞭な点が多い。
また、豊臣秀頼の乳母を務めたともされる。


1582年、明智光秀による本能寺の変のあと、清洲会議にてお市の方が柴田勝家と再婚する事になり、浅井三姉妹らと大蔵局も北ノ庄城へ入った。

大野氏は新潟では白根地区に結構います。この大野氏は父方の一族が昔鉄鋼関連の会社を経営していた時に繋がりがあります。
だんだん繋がって来ましたね
返信する
Unknown (Unknown)
2019-10-21 12:55:31
真野助宗の子は真野頼包で、その真野頼包の娘・青柳は、大坂の陣にて討死した木村重成の正室です

1615年1月7日、真野青柳(大蔵卿局の姪、真野豊後守頼包の娘)を正室に迎えた。


大蔵卿局・大蔵局(おおくらのつぼね)は浅井長政の家臣だっとされる大野定長の妻で、茶々の乳母であったとされる。

大野家の出自は丹後・尾張・近江など諸説あり、不明瞭な点が多い。
また、豊臣秀頼の乳母を務めたともされる。


1582年、明智光秀による本能寺の変のあと、清洲会議にてお市の方が柴田勝家と再婚する事になり、浅井三姉妹らと大蔵局も北ノ庄城へ入った。

大野氏は新潟の白根地区には結構います。父方が昔鉄鋼業を営んでいた時に大野氏と繋がりがあり。今も鉄鋼業をなさっていますよ。
だんだん繋がって来ましたね
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