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【始祖七代】源国房~土岐光定
(一代)源国房 (?~1119)正四位下 信濃守 伊豆守 土佐守 伊予守
(二代)源光国 (1063~1147)従五位下 検非違使 出羽守
父国房の美濃での活躍期には検非違使として在京しながらも、茜部荘の私領拡大を父と共に大いに進め…
(三代)源光信 (1093~1156)従五位下 出羽判官 検非違使 出羽守 土岐判官
父光国と同様に検非違使として在京、朝廷警護の活躍は「鳥羽院四天王の第一なり」と高名…
(四代)源光基 ( ? ~1163)従五位下 蔵人 検非違使 伊豆守 伊賀守
父光信を助け、同じく左衛門尉・検非違使として在京し活躍。
特に、武士が台頭するもとになった「保元の乱」や、その三年後の「平治の乱」にも高名…
滋賀県坂田郡伊吹町にある大楽寺は、光基を先祖とし、その墓は名水〝大清水〟が湧き出るすぐ前にあります。
源光基供養塔
(滋賀県坂田郡伊吹町大清水)
(五代)土岐光衡(1159~1206)従五位下 郡戸判官代 美濃守 蔵人左衛門尉
父光基の弟光長の三男で、光基の養子となって家督を継ぎ、鎌倉幕府の御家人として活躍。
将軍源頼朝が富士の裾野で巻狩りを行なった時も、「吾妻鏡」に土岐三郎として出名。
光衡は、土岐郡に土着し始めて土岐を姓とし…
(六代)土岐光行( ? ~1249)従五位下 出羽守 検非違使 土岐判官
父光衡に劣らぬ器量人といわれ、若くして後鳥羽院西面の武士となり、土岐判官と号しました。
妻は、千葉氏である東胤頼の女で、鎌倉幕府の有力御家人筆頭との閨閥が…
(七代)土岐光定( ? ~1281)従五位下 隠岐守
光行の五男で、鎌倉幕府執権北条氏から妻を娶るほどとなりました。
当然鎌倉とのつながりが強かったものと思われますが、記録には余り表れていません。
その後、功あり伊予国浮穴郡地方(松山市・重信町・久万町)の地頭職となり、
悪党讃岐十郎を搦めとった功績で隠岐守に任ぜられました。法名は定光…
~~~*~~~
以下は佐々木哲氏のメルマガで、関係のある部分をコピーした。
土岐氏も美濃の有力御家人で、北条氏と姻戚関係を結び、土岐隠岐守光定は北条氏を妻としていた。
尊卑分脈や続群書類従所収土岐系図で、光定の庶子は隠岐太郎・三郎と称し、
嫡子は隠岐孫太郎・孫二郎・孫三郎と称した。
系図では頼貞母(光定妻)を北条貞時女とし、頼貞妻を北条宗頼女とする。
しかし頼貞母(光定妻)は北条貞時女では年代が合わない。
時定女の誤りだろう。系図ではよくある錯誤である。
光定が時定の女婿であれば、両者の諱字が共通することも理解できる。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」では光定妻(頼貞母)を北条経時女とする。
たしかに経時であれば年代も合うが、比較的信用できる尊卑分脈などで貞時女とするならば、時定女の錯誤と考える方が自然であろう。
時定が経時・時頼の同母弟であることから、「明智氏一族宮城家相伝系図書」は時定女を経時女と誤まったのであろう。
時定は得宗北条経時・時頼兄弟の同母弟で、肥後国阿蘇社領を管理して阿蘇氏を名乗り、元寇では肥前守護・鎮西探題に補任されている。孫太郎定親の名乗りは外祖父北条時定に由来すると考えられる。
また頼貞妻の父北条宗頼(相模修理亮)は、得宗北条時宗の異母弟であり、豊後守護大友頼泰女を妻とし、元寇に際して周防・長門守護を兼帯して長門探題に補任されている。
頼貞の名乗りは摂津源氏の通字「頼」ではなく、北条宗頼に由来すると考えられる。
このように土岐氏は北条氏と重縁を結んでおり、とくに頼貞の舅北条宗頼は、豊後守護大友頼泰の女婿であり、大友氏の一族である豊後竹中氏が女佐の臣として美濃に居住したことは十分に考えられる。
それが美濃竹中氏であろう。そこに半兵衛重治の父岩手遠江守重元が養子に入って竹中氏を称したと考えられる。
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【始祖七代】源国房~土岐光定
(一代)源国房 (?~1119)正四位下 信濃守 伊豆守 土佐守 伊予守
(二代)源光国 (1063~1147)従五位下 検非違使 出羽守
父国房の美濃での活躍期には検非違使として在京しながらも、茜部荘の私領拡大を父と共に大いに進め…
(三代)源光信 (1093~1156)従五位下 出羽判官 検非違使 出羽守 土岐判官
父光国と同様に検非違使として在京、朝廷警護の活躍は「鳥羽院四天王の第一なり」と高名…
(四代)源光基 ( ? ~1163)従五位下 蔵人 検非違使 伊豆守 伊賀守
父光信を助け、同じく左衛門尉・検非違使として在京し活躍。
特に、武士が台頭するもとになった「保元の乱」や、その三年後の「平治の乱」にも高名…
滋賀県坂田郡伊吹町にある大楽寺は、光基を先祖とし、その墓は名水〝大清水〟が湧き出るすぐ前にあります。
源光基供養塔
(滋賀県坂田郡伊吹町大清水)
(五代)土岐光衡(1159~1206)従五位下 郡戸判官代 美濃守 蔵人左衛門尉
父光基の弟光長の三男で、光基の養子となって家督を継ぎ、鎌倉幕府の御家人として活躍。
将軍源頼朝が富士の裾野で巻狩りを行なった時も、「吾妻鏡」に土岐三郎として出名。
光衡は、土岐郡に土着し始めて土岐を姓とし…
(六代)土岐光行( ? ~1249)従五位下 出羽守 検非違使 土岐判官
父光衡に劣らぬ器量人といわれ、若くして後鳥羽院西面の武士となり、土岐判官と号しました。
妻は、千葉氏である東胤頼の女で、鎌倉幕府の有力御家人筆頭との閨閥が…
(七代)土岐光定( ? ~1281)従五位下 隠岐守
光行の五男で、鎌倉幕府執権北条氏から妻を娶るほどとなりました。
当然鎌倉とのつながりが強かったものと思われますが、記録には余り表れていません。
その後、功あり伊予国浮穴郡地方(松山市・重信町・久万町)の地頭職となり、
悪党讃岐十郎を搦めとった功績で隠岐守に任ぜられました。法名は定光…
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以下は佐々木哲氏のメルマガで、関係のある部分をコピーした。
土岐氏も美濃の有力御家人で、北条氏と姻戚関係を結び、土岐隠岐守光定は北条氏を妻としていた。
尊卑分脈や続群書類従所収土岐系図で、光定の庶子は隠岐太郎・三郎と称し、
嫡子は隠岐孫太郎・孫二郎・孫三郎と称した。
系図では頼貞母(光定妻)を北条貞時女とし、頼貞妻を北条宗頼女とする。
しかし頼貞母(光定妻)は北条貞時女では年代が合わない。
時定女の誤りだろう。系図ではよくある錯誤である。
光定が時定の女婿であれば、両者の諱字が共通することも理解できる。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」では光定妻(頼貞母)を北条経時女とする。
たしかに経時であれば年代も合うが、比較的信用できる尊卑分脈などで貞時女とするならば、時定女の錯誤と考える方が自然であろう。
時定が経時・時頼の同母弟であることから、「明智氏一族宮城家相伝系図書」は時定女を経時女と誤まったのであろう。
時定は得宗北条経時・時頼兄弟の同母弟で、肥後国阿蘇社領を管理して阿蘇氏を名乗り、元寇では肥前守護・鎮西探題に補任されている。孫太郎定親の名乗りは外祖父北条時定に由来すると考えられる。
また頼貞妻の父北条宗頼(相模修理亮)は、得宗北条時宗の異母弟であり、豊後守護大友頼泰女を妻とし、元寇に際して周防・長門守護を兼帯して長門探題に補任されている。
頼貞の名乗りは摂津源氏の通字「頼」ではなく、北条宗頼に由来すると考えられる。
このように土岐氏は北条氏と重縁を結んでおり、とくに頼貞の舅北条宗頼は、豊後守護大友頼泰の女婿であり、大友氏の一族である豊後竹中氏が女佐の臣として美濃に居住したことは十分に考えられる。
それが美濃竹中氏であろう。そこに半兵衛重治の父岩手遠江守重元が養子に入って竹中氏を称したと考えられる。
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嘉元の乱を契機に土岐氏は、隠岐氏(佐々木氏流)が入ったのではないかとも想像しています。
佐々木氏とのつながりが「九里」にとっても大切な箇所で、いただいたヒントを基に調べてみたいと思います。
ありがとうございます!
また、前回の件、本当に失礼いたしました。
また、何かございましたらご教示・ご指摘いただけますと有難いです。
隠岐氏の部分と、光包の部分ですが、
以下のページをご覧いただけますでしょうか?
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100050638/viewer/53
薄く書いてある部分に光包ー頼包ー頼貞とあります。(隠岐氏はまた別の系になっている)
しかし、「宮城家系図」の記述では、頼貞を兄光包の養嗣で光定六男とする。(宝賀寿男氏のページ)
光定(土岐五郎)-光包(隠岐太郎)-頼貞(隠岐孫次郎)と書かれているそうなので、混乱しています。
土岐氏に於いて一番信用のおける系図は一体どの系図なのでしょうか。