平賀氏は源の新羅三郎義光の子孫となる。wikipediaより関係しそうなところをコピペする。
新羅三郎義光の子盛義が佐久郡平賀邑を有したことに始まり、子の平賀義信の代に、源氏御門葉として、また御家人筆頭として隆盛を誇った。
義信の子惟義は文治元年(1185年)に相模守となる。2代将軍頼家以降では京都守護として活躍し、幕府から伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津という近畿6ヶ国の守護を任され、更に朝廷の後鳥羽上皇の近臣となり、大内冠者と呼ばれた。最終官位は修理権大夫で四位に昇進したと考えられる。惟義は、承久元年(1219年)正月27日、3代将軍実朝の右大臣昇進の鶴岡参宮行列に列したのを最後に記録上から姿を消す。
惟義の弟朝雅は、父義信に次いで武蔵守となり、北条時政の娘(牧の方所生)を妻に迎えて京都守護と伊賀・伊勢の守護を兼ね、さらに伊賀の国主と栄達を重ねるが、義父時政の寵愛が災いして元久2年(1205年)牧の方が朝雅を将軍にしようとした陰謀(牧氏事件)が発覚、京都で誅された。
朝雅の死後(時政の失脚後)も惟義の権威は揺らがなかったが、鎌倉幕府内では執権北条氏の権威が確立し、当初は御家人筆頭であった席次も北条氏の下座に着くようになる。また惟義の後を継いだ惟信は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方に付き、平賀氏は没落した。
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平賀氏が大内氏となる。石見国を調べていると久利氏と大内氏のやり取りが見える。(久利家文書)
大内 惟信(おおうち これのぶ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。清和源氏義光流平賀氏の一族で、大内惟義の嫡男。母は藤原秀宗の妹(藤原秀康の叔母)。