九里 【九里】を探して三千里

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大山守皇子(おおやまもり の みこ)応神天皇の息である。日置氏の祖ともいわれていた。

2020-08-05 | 雑記

この方も日置氏の祖と言われていたそうである。

大山守皇子(おおやまもり の みこ、生年不明 - 応神天皇41年(310年?)は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。
応神天皇の五人の息のうちの一人。

大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命・仁徳天皇)
額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)
大山守皇子(おおやまもりのみこ) - 土形君・榛原君祖
稚野毛二派皇子(わかぬけのふたまたのみこ、若沼毛二俣王) - 息長君等祖、継体天皇高祖父、忍坂大中姫・衣通姫父
隼総別皇子(はやぶさわけのみこ、隼別皇子、速総別命)

===*===

前回の記事のpdfの説では「古事記…応神天皇「(皇子)大山守命は山海の政(海部・山部・山守部などの部民を掌る(つかさどる)仕事)をせよ」・大山守命は土形君、幣岐(日置)君、榛原君等の祖

では、どこからその説が出てきたのだろうか?
『名古屋神社ガイド』さんのぺーじより
とびきり面白いデス!
https://jinja.nagoya/top/nakaku/hioki-jinja

 明治9年(1876年)に完成した『延喜式』神名帳の解説書、『特選神名牒』はこう書いている。
「日置神社(ヘキノ) 祭神 應神天皇 今按姓氏録に日置朝臣應神天皇々子大山守王之後也古事記(應神巻)に大山守命者幣岐君等之祖とあれば實は大山守を祭れるに應神天皇を配享せしが後に八幡と云るより主客をとりたがへて大山守命の御名はかくれ玉へるものなるべき姑附て後考に備ふ」

『尾張名所図会』は日置朝臣が祖神として應神天皇を祀ったのではないかとしている。
『新撰姓氏録』は815年に完成した古代の氏族名鑑で、京と畿内に住む1182氏を出自によって皇別、神別、諸蕃に分類して紹介している。
 その中で日置朝臣は右京皇別として載っている。應神天皇の子の大山守を祖とするのが幣岐君、土形君、榛原君などで、日置は幣岐君のことだという。日置は本来、「ヘキ」ということだ。

 大山守(オオヤマモリ)は應神天皇の子で、大鷦鷯尊(オオサザキ/のちの仁徳天皇)や菟道稚郎子(ウヂノワキイラツコ)の異母兄に当たる。
 應神天皇は菟道稚郎子がお気に入りで、次の天皇として菟道稚郎子を皇太子にしていた。しかし、年長である自分が選ばれなかったことを恨んだ大山守は、應神天皇が崩御すると菟道稚郎子を殺そうと企んだ。それが大鷦鷯尊に知られることとなり、菟道稚郎子と大鷦鷯尊の計略で菟道川(うじがわ/宇治川)を渡っているときに舟を転覆させられ逆に殺されてしまう。
 大山守の遺骸は考羅済(かわらのわたり)で見つかり、引き揚げられて那羅山(ならやま)に葬られたという。那羅山墓は奈良県奈良市に現存している。
 その後、菟道稚郎子と大鷦鷯尊の間でもいろいろモメて3年の間、天皇位が空白になったとされる。結果的に菟道稚郎子が死に、大鷦鷯尊が仁徳天皇として即位したというのが日本神話で語られる。
 大山守の一族は各地に散らばり、土形君(ひじかたのきみ)や榛原君(はいばらのきみ)、幣岐君(へきのきみ)となったとされる。
 それらのうち、尾張にやって来たのが日置朝臣の末裔で、この地で祖神の大山守を祀ったのが日置神社だったということになるだろうか。
 これは想像であり、ひとつの可能性でしかないのだけど、古代に日置部が置かれたという話よりは現実味がありそうだ。

 ついでに天太玉命(アメノフトダマ)について少しだけ触れておく。
 アメノフトダマは、天照大神(アマテラス)が天岩戸(あめのいわと)に隠れてしまったとき、出てきてもらうための策を練るため天児屋命(アメノコヤネ)とともに占い(太占/ふとまに)をしたとされる神だ。
 一説では高皇産霊尊(タカミムスビ)の子ともされ、天孫降臨のニニギに随伴して地上に降り、アメノコヤネと一緒にアマテラスの神殿を守る役割を与えられたともいう。

 古代氏族の忌部氏(いんべうじ/のち斎部氏)の氏神とされる。

 明治になって正式に日置八幡を『延喜式』神名帳の日置神社にしようとなったとき、どうしてアメノフトダマにしてしまったのかはよく分からない。大山守は仁徳天皇を殺そうとした逆心の皇子ということで祭神にすることがはばかられたのか、あるいは大山守が本来の祭神だったことが忘れ去られてしまったためだろうか。
 あるいは、アメノフトダマは古代の尾張氏・海部氏と関係が深いという話もあるので、ここでアメノフトダマを祀ることに何かいわれがあるのかもしれない。


===*===

佐々木宮のあたりに或いは仁徳天皇が住んでいたのではないか?という説がある。
沙沙貴神社になる以前の「佐々木宮」である。

そして、応神天皇が日牟禮八幡宮に居て…
若狭国手前の今津日置には大山守命がいたのかもしれない。(名古屋の方かもしれない…)

さて、私が探しているのは和邇氏であり、小野氏であり、さらに熊野と関係を持つ紀氏である。

熊野も亦、太陽信仰があったと思う。
古事記の
太陽を背にすれば勝てる!と兄の意見を入れ見事に勝った神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)『古事記』
つまり太陽と一体化することで、アマテラスの力をもらえるという事なのではないだろうか。

そして、神倭伊波礼毘古命の母親は、タマヨリビメ(玉依毘売、『古事記』)で、玉依毘売の父は綿津見神(わたつみのかみ)=海である。

沖縄の方々の伝承にある様に「火の神はもと海から上がって来たものだから」なので、日(火)と海の関係は密接であると思う。

日本人の心の中にはいまだ「太陽信仰」があるのではないだろうか?
御来光を拝み(崇め)に元旦に出掛けるのも、その一つだろうと思う。

「梅干し弁当」に至るまで、太陽を心の中心としてきた時代は長いと思う。

エジプトからやってきたと思われる太陽信仰。
また、神社における夏至・冬至の意味など考えるに(大和岩雄説)、太陽無くしては日本人の生活は成り立たなかったのではないかと思うほど、生活に密着していたように思う。(←あたりまえだった。が、心の中に…という意味。)


===*===

日牟禮八幡宮から思わぬ方向へ入ってしまったが、
近江国の九里氏に関しては、やはり和邇氏・小野氏を中心に調べ、更に熊野の紀氏を中心に調べていくのが良いように思った。






 


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