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我が九里家古文書から(4) 九里政敬(まさたか) その1

2016-03-11 | 我が九里家と古文書
 敬三の祖父である「九里八郎右衛門政敬」の登場です。 
(政敬は長生きだったため、家督は息子政忠ではなく、孫の敬三が継ぐこととなる。)

安永6年1777年生~万延元年1860年没 享年84歳

岡田重礼の弟である岡田長門守重善6世の孫にあたります。



天明8年(1789年)九里修政の跡を継ぎ、150石を襲ぎます。(12歳)

以下は資料を見つつ、である調で進みます。

柏原(かいばら)藩用人。

柏原藩主
織田 信憑(のぶより) 四代藩主。(藩主の期間*1783年 - 1827年)
織田 信守 五代藩主       1827年 - 1829年
織田 信古 六代藩主       1829年 - 1842年
織田 信貞 七代藩主       1842年 - 1846年
織田 信敬(のぶのり) 八代藩主  1847年 - 1854年
織田 信民 九代藩主       1854年 - 1865年

以上の六代にわたって仕える。安政2年藩主信民の時に致仕。


信憑48歳の時、政敬12歳(1789年)で近習見習となる。
寛政3年春(1791年)14歳 馬廻りとなる。
資性鋭敏で節義があった。

享和元年1801年 政敬24歳で藩主にしたがって江戸へ赴き、6月世子信守の側頭となる。
その信守が放縦な気性で政敬が諌めるも聞く耳を持たず、前途を案じ信憑(のぶより)に告げるが、意に介さなかった。(困った藩主親子である。)
享和2年の夏柏原に戻り、翌3年夏役人格目付に進み、文政3年1820年春に用人郡町寺社奉行兼元締となる。

文政5年1822年十月生駒宏綱が江戸へ行き、信守を諌めたが「お前のような愚者の言ではなかろう。必ずほかに建議する者があるのであろう」と難詰。
宏綱は畏縮し九里政敬の教えによるものと答えた。
結果、同12月信守は政敬を責めて禄150石を奪い、俸10口を給して、給人格広間番にまで降格。(それでも、言わねばならぬ事は言う政敬。)
翌文政6年1823年 政敬46歳 二月、世子決定の件で藩内が紛糾した際、痛論し謹慎を命じられること十余日。
これが、「秘命騒動」である。

文政12年、52歳で6年間の年棒のない状態からやっと許された。禄80石に復し馬廻り、郡町寺社奉行兼元締となった。
同年より政敬は江戸邸内の家を【弁行堂】と名付け仮の学校とした。
目付槙田重厚・侍医小泉仙庵を会頭として有志の徒に順番に経書を講ぜしめた。
翌春用人格を命ぜられ禄70石を加えられ、あわせて150石となった。
夏に柏原に帰り天保3年(1833年)56歳、春に用人となり、はじめて旧に復した。

天保6年59歳の秋 物頭となる。
天保8年61歳 事件が起こる。「保野騒動」

この続き、【秘命騒動】【保野騒動】のことは、その2.です。

【三百藩家臣人名辞典】(5)新人物往来社より 自分なりに編集・加筆


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