宗像少輔とは??
一つのヒントがwikipediaの【大吉祖荘】にあった。
何と藤原師綱の息【親綱】のことという。
という事は、師綱の娘は波多野遠義に嫁いでいるので、親綱と遠義は義兄弟で、更に義通の叔父が親綱となる。(親綱=宗像少輔と仮定して考えている。)
しかも小一条家。藤原実方と同じではないか!
系図を見てみよう! 一行目に実方 最後の行の師成の曾孫が師綱である。
其の宗像少輔領の大吉祖荘であり、其の荘官に「中原兼経・兼遠」がいた事になる。
藤原北家小一条家と中原氏が繋がったのは、波多野氏を通してのことであったかもしれない。
とすると、この兼遠と中原久経の父の中原は案外近いところにいたかもしれない。
因みに中原久経は母が波多野義通の妹か、義通の妻の妹で、源義朝の妻であったこともある。
更に義朝と別れたのちに中原氏と結婚し久経をもうけたことになる。
其の中原氏は、私の考えでは近江の中原なのだが、何も証拠がない。
話を元に戻すと…
宗 | 像 | 宮 | 内 | 卿 | 師 | 綱 | 息 | 覺 | 網 |
とあるので、もう少し調べてみると、師綱の息に覚綱(仁和寺。法眼。阿闍梨)がいる。
ともかく、藤原小一条家と波多野・中原氏が繋がったようである。
親綱の息 藤原家時 ↓
?-1236 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
宮内大輔藤原親綱の子。建久9年出雲守(いずものかみ),のち斎院長官,少納言,中務大輔,越前(えちぜんの)守などをつとめ,安貞2年正三位となる。嘉禎(かてい)2年1月死去。法名は蓮家。
吾妻鑑の底本には「宗像少輔」とあるが、「宗像大輔」に改めた。生没年未詳。藤原師綱の男。母は中納言藤原俊忠の娘。中務大輔、宮内大輔。的大吉祖庄筑摩郡。現、長野県木曽郡木祖村小木 よる。