橘義清の息俊清、その俊清の息盛宗が山中氏の祖と言われている。
山中盛宗は柏木本領主とあるが、系図に気にかかる註が付いていた。
「橘大夫宇田尼夫王大夫清俊」→これは、橘大夫、宇田尼夫、王大夫清俊 となるように思える。
橘大夫盛宗が宇田尼の夫となって柏木本領を得て清俊と名のった
御厨保司職を得て、柏木御厨宇田にその居を移す(日本文化史論叢 柴田實先生古希記念)
山中俊直はこの清俊の孫という。(中世村落都仏教 中村善人著作)
柏木御厨と宇田の位置関係は… ↓ オレンジの円が柏木御厨があったであろうと思われる場所である。(千年プロジェクトさんページより) 下方に宇田の文字が見える。
山中直俊が建久五年(1194年)二月十四日「鎌倉将軍家下文案」にその名が挙がり、また、
山中村地頭職鈴鹿山守護= 鈴鹿関警固役を 先祖重代相伝の所職としていた鎌倉御家人と認識されていたこと。(山中俊直ー俊信ー有俊)
いっぽう、同時代よりやや早く(1177年あたり)…に、浅小井清長=深尾監物太郎清長が員弁郡の鈴鹿山にもほど近い場所で山賊退治をしていたが、やがては北条氏とつながっていくこと…を考えるに、つながりがあったのではないだろうか?
深尾氏(深尾元範)が築城した浅小井城。
また、山中氏も浅小井荘の領主?(地頭?)であった時代もある。(1431年 山中文書)
が、なんらかのつながりがあったという証にならないだろうか。
山中俊好も某年十月浅小井(現近江八幡市)を六角承禎より安堵された。
六角承禎(義賢)は1521年―1598年を生きた人物なので、すでに深尾氏は浅小井には居なかった。
が、『浅小井』という氏名が深尾氏よりも以前にあったわけで、平安時代にはすでにそのあたりに住んでいたと思われる。
角川日本地名大辞典には「浅小井荘室町期から見える荘園名。蒲生郡のうち。室町期は善入寺領か。」と書かれている。
山中氏が『浅小井』とかかわりを持つようになったのはいつ頃なのだろう…