菅原在良
菅原在良
母中将藤原実方女。
鳥羽院天永2年12月12日(ユリウス暦:1112年1月12日)侍読〔菅儒侍読年譜〕。
文章博士。
大内記。
御書所別当。
長者。
従四位上。
式部大輔。
天徳2年11月24日(ユリウス暦:959年1月5日)贈従三位〔本朝諡号雑記〕。
長久4(1043)年生〔本朝諡号雑記。
尊卑分脈作長久2(1041)年〕。
保安3年10月3日(ユリウス暦:1122年11月3日)卒〔本朝諡号雑記。
尊卑分脈作保安2年10月23日(ユリウス暦:1121年12月4日)〕。
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此の後、どのような関係から中原を名乗るようになるのだろう。
この在良から唐橋飛騨守中原親光に至る系があるはずである。
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菅原在良は、菅原在良(従四位上・式部大輔・贈従三位)(1041年 - 1121年)を祖とする堂上家から唐橋家(からはしけ)は起こる。
参考菅原家は、源平藤橘の橘一族。 ┌是綱─厳実氏人爲不可
菅原道真┴在良┬在殷子爲不可
├信永
├善弘─在長─安能(現別当)
└為恒─珍全(別当職を望んで安能を追い出そうと画策している)
安樂寺長官の別当職をみだりに望む人を橘一族から放り出す手紙
安樂寺長官の別当職をみだりに望んで、氏の長者の推挙を得ずに、僧兵を使って就任運動をしたので、橘一族から締め出すこと
右の事は、例えば父の命令に背くようなことは、子供としての正しい道から外れている。氏の長者の推挙に逆らうものは、氏の一族とは認めない。先祖の天神様菅原道真公の命令書に決められているのは、氏の長者の推薦によって、兄弟順に任務するようになっています。それを氏の長者の推薦を得ずに僧兵を使って就任運動をするような奴は、京都朝廷で止めさせてください。橘一族から締め出すことはこの通りであります。
永久六年(1118)正月十二日 橘一族の氏の長者の式部大輔菅原在良
文治二年(1186)六月小十五日辛酉。安樂寺①別當安能僧都、平家に同意之聞有るに依て、改替被んと欲す。
二品憤り申さ令め給ふ所也。珍全之を望み申し、京都に於て當時其の沙汰有り。
而るに安能潜に使いを進め、藤判官代邦通に属し、子細を陳じ申す。
寺務之間興隆の事并びに當寺務の事權門に付し濫望③す不可之由、證文有りと稱し、
永久の起請・保延の宣旨状等を進ずと云々。今日關東に參着する也。
参考①安楽寺は、大宰府天満宮の菅原道真廟所。
以上の記事は以下のアドレスより拝借しました。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma06-06.htm
安楽寺 別当安能
https://www.city.dazaifu.lg.jp/uploaded/attachment/4212.pdf
菅原唐橋家、情報をもう少し集めてみたい。
霊力?を持っていた道真。死後の世界と繋がっていた小野篁。
平安には、不思議な力を持った方が登場しますね。
大宰府…九州自体にまだ行ったことがなく、憧れでもあります。できれば梅の季節がいいですね!!
道真が会いに来たね~と喜んでくれると良いのですが…気難しそう。
久利・久里・九里一族の本の中に菅原家の久利氏も記載があります。もう一度見直す機会がやってきたようです!
梅の精 気難しさも色となり
サレバ今ノ平家滅給テ後、文治之比、伊登藤内、補ニ鎮西九国之地頭一下リタリケルニ、其郎従ノ中ニ、一人下郎、無法ニ安楽寺へ乱レ入テ、御廟ノ梅ヲ切テ宿所へ持行テ薪トス。其男即長死去シヌ。藤内驚テ、御廟ニ詣テヲコタリヲ申。通夜シタリケルニ、御殿ノ内ニケ高キ御音ニテ、
情ナク切人ツラシ春クレバ主ジワスレヌヤドノムメガヘ
と言う部分が有り、新古今和歌集神祇歌に撰歌されております。この梅が飛梅と言う事ですね。
鎌倉殿で、今、義時が八重にふられて泣くシーンが話題とか。番組冒頭なのでインパクトがありますよね。
又雑談にお邪魔いたします。
名残りとてさくらが枝につもる雪