九里 【九里】を探して三千里

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中原久経の祖父は?  武蔵少掾 中原清兼 ではないだろうか? 考察

2022-01-14 | 九里【まとめ】

久経の実父は菖蒲氏というのは【ちょっと飛躍しすぎ】なので、説明をしていこうと思う。

考えながら書いているので、間違いもあると思う。でも案を書いておかないと忘れてしまうので、書き留めておこうと思う。

久安三年(1147年)↓

 

波多野義通の妹が産んだ【源朝長】が1443年生まれである。

 

1147年に武蔵少掾となっているのは、中原清兼で、この人物が「中河辺清兼」なのではないだろうか?

この中河辺の「河辺」は、

1186年の初見だが、武蔵入間 河越荘内にも河辺郷がある。

下河辺の線も考えたが、武蔵少掾とあったので、河越の方ではないかと思う。(河辺郷)

 

また、1147年、頼朝が生まれた年である。

義朝の1160年(晩年)に、久経は右筆として仕えていたようである。(=京にいたのか?)


武蔵少掾の中原清兼の娘が久経の母。

久経の母は、義朝との離縁後に再嫁している。

姉がいる相模にやってきたとは考えられないだろうか?

 

久経の祖父は、中原清兼とし、実父は?

久経の実父が菖蒲氏であったのではないだろうか? 

波多野義通の弟に位置する菖蒲実経

波多野義通の妻に中河辺清兼の娘。(姉)

菖蒲実経の妻に中河辺清兼の娘(妹)

 

「中原久経の経は、その「経」かも知れない。

これは、石見国の久利との接点を考えた際に、出てきた案のだが。

大友氏とも近く、中原親能とも、旧知の間柄だったのではないだろうか。

親能は大友経家の娘を妻としている。

 

菖蒲氏は石見国美濃郡長野荘を賜っており、久利別符から近い。

菖蒲氏からは長野氏が出ている。

松田義常の母も中河辺清兼の娘(姉)

中原久経の母も中河辺清兼の娘(妹)

 石見国での近さが、清原である久利氏と中原久経を結び付けたのではないだろうか?

そこで「九里」となっていったのではないだろうか?

 

親能の妻は大友経家の娘。下記の中原経高は、大友家の経高ではないだろうか。1205年

 

 


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