久経の実父は菖蒲氏というのは【ちょっと飛躍しすぎ】なので、説明をしていこうと思う。
考えながら書いているので、間違いもあると思う。でも案を書いておかないと忘れてしまうので、書き留めておこうと思う。
久安三年(1147年)↓
波多野義通の妹が産んだ【源朝長】が1443年生まれである。
1147年に武蔵少掾となっているのは、中原清兼で、この人物が「中河辺清兼」なのではないだろうか?
この中河辺の「河辺」は、
1186年の初見だが、武蔵入間 河越荘内にも河辺郷がある。
下河辺の線も考えたが、武蔵少掾とあったので、河越の方ではないかと思う。(河辺郷)
また、1147年、頼朝が生まれた年である。
義朝の1160年(晩年)に、久経は右筆として仕えていたようである。(=京にいたのか?)
武蔵少掾の中原清兼の娘が久経の母。
久経の母は、義朝との離縁後に再嫁している。
姉がいる相模にやってきたとは考えられないだろうか?
久経の祖父は、中原清兼とし、実父は?
久経の実父が菖蒲氏であったのではないだろうか?
波多野義通の弟に位置する菖蒲実経
波多野義通の妻に中河辺清兼の娘。(姉)
菖蒲実経の妻に中河辺清兼の娘(妹)
「中原久経の経は、その「経」かも知れない。
これは、石見国の久利との接点を考えた際に、出てきた案のだが。
大友氏とも近く、中原親能とも、旧知の間柄だったのではないだろうか。
親能は大友経家の娘を妻としている。
菖蒲氏は石見国美濃郡長野荘を賜っており、久利別符から近い。
菖蒲氏からは長野氏が出ている。
松田義常の母も中河辺清兼の娘(姉)
中原久経の母も中河辺清兼の娘(妹)
石見国での近さが、清原である久利氏と中原久経を結び付けたのではないだろうか?
そこで「九里」となっていったのではないだろうか?
親能の妻は大友経家の娘。下記の中原経高は、大友家の経高ではないだろうか。1205年