匝瑳南条(中世)
鎌倉期から見える地名下総国のうち「和名抄」の匝瑳郡が平安末期に分割・再編されて成立した国衙領の単位と考えられるが,はやく紀伊熊野山領として荘園化して匝瑳南荘・南条荘とも呼ばれた
文治2年2月日付の関東知行国乃貢未済荘々注文に「下総国……熊野領匝瑳南庄」とある(吾妻鏡文治2年3月12日条)
また,建久8年の香取神宮遷宮用途注進状に「南条庄百石 進済了」と見え,香取社式年遷宮の作料米を負担しているが,これ以降の遷宮では課役をつとめた形跡がない(旧大禰宜家文書/県史料香取)
文永9年12月20日付関東下知状案によれば,暦仁年間,領家熊野山は「熊野山領下総国匝瑳南条東方」の新田を検注しようとしたが,これに反対する地頭椎名六郎胤高・小太郎胤義父子との間で相論となり,暦仁元年12月17日,鎌倉幕府の裁許によって,東方については検注を止め,胤高父宝蓮(椎名五郎胤光か)地頭在任中の年貢の倍額を領家に納入することとなった文永8年には南条西方の検注が領家によって企図されたが,地頭胤員らの訴えによって,東方と同じ条件で検地は中止されている(金沢文庫文書/県史料県外)
同文書からは,匝瑳南条が東方・西方に分かれ,複数の地頭が補任されていたことがうかがわれる
当地は元来,上総氏に従う匝瑳氏の所領であったが,寿永2年,上総介広常が滅ぼされるに及んで,千葉氏の支配下に入ったものと思われる
鎌倉期の地頭椎名氏は千葉常胤の弟五郎胤光を祖とする千葉氏庶流で,当地の地頭に補任され,一族は野手(現野栄【のさか】町),松山・山桑・飯倉・福岡(以上,現八日市場市)などの地に蟠踞した(神代本千葉系図・千葉大系図/房総叢書)
なお,中世に当地に属したことの明らかな郷村として飯倉郷谷中村・福岡郷(以上現八日市場市)があり,また,天正19年の検地帳では椿村(現八日市場市椿)・富谷村(同市大字ロ)を南条荘内とする(八日市場市史上)当地域は現在の八日市場市南部および旭市・野栄町の一部を含む地域に比定される
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上記の飯高胤員は、加地実秀と連署(富木常忍への書状か?・1287年)をしていた人物かもしれない。が、椎名氏にも胤員がいたことがわかった。どちらだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%9D%E7%91%B3%E9%83%A1
匝瑳郡(wikipedia)
平安時代末には当郡を分割して、匝瑳北条荘・匝瑳南条荘・千田荘・玉造荘が立荘され、北部の匝瑳北条荘や千田荘は為光流藤原氏が、南部の匝瑳南条荘は上総氏系の匝瑳氏がそれぞれ勢力を有した。
しかし治承4年(1180年)の結城浜の戦いで皇嘉門院判官代藤原親政が源頼朝に呼応した千葉常胤に敗れたため相次いで没落、千田荘には千田氏、匝瑳北条荘には飯高氏、匝瑳南条荘には椎名氏など千葉氏一族が蟠踞した[
正東山日本寺
元応元年 (1319) に中山法華経寺の初祖常修院日常が開基、3世浄行院日祐が開山した北総一円の日蓮宗布教の拠点となる寺です。晩年の日常の隠棲寺であり、日蓮宗の本山寺院です。
慶長4年 (1599) ~明治8年 (1875) までの間、学僧の学びの場である「中村檀林」がありました。270年余に亘り、延べ10万人もの僧侶たちが巣立って行ったといわれています。
https://www.town.tako.chiba.jp/docs/2018012900346/
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/1234705100/1234705100200020/mitagai/
因みに、私が調べたところ 富木常忍は1299年に歿しているので、1319年以前にこの像を作らせてここに置いたのだと思う。
巡り巡って助さんも滞留したことがあるそうで、偶然とは思えない!
緑の矢印が日本寺、 四角がたくさんは飯高付近