【中原友景】コトバンクより
鎌倉時代中期の官人。建保5(1217)年に修明門院の下北面(院に仕える侍),嘉禄2(1226)年に使宣旨を受け,その後10年ほどにわたって検非違使として活動の所見がある。西園寺実氏の後見といわれており,武家との申次 をつとめるなど,同家において重要な立場にあったらしい。後嵯峨院の下でも,下北面の所司・御厩案主に任じられている。西園寺家の興隆を下から支えた人物のひとりといえよう。
(本郷恵子)
中原友景は途中から大中臣になったのか、はたまた二人いたのか…
下記を見ると二人いたと思われるのだ。
因みに友景の父景康、そして友景の兄弟の光氏も大中臣姓となっている。
なので、有安の養子は大中臣家に入ったと考えられるのではないだろうか?(多氏に入ったとイコールなのかもしれない)
一時期で、また中原姓に戻っている可能性もある。
多氏と大中臣氏の関係はどうなっているのだろうか?
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hitatinaka.htm
大和の意富(多臣の本拠で、現田原本町多)は三輪山型蛇神伝説の発祥地・三輪山の真西に位置しますが、常陸では逆に朝房山の真西に意富と大井神社があります。大井神社(=鹿島明神)の祭神には、「建借馬命、木花開耶姫命」があげられます。多臣氏は、神武天皇の皇子神八井耳命の後裔と称しましたが、実際には竜蛇神信仰をもつ和邇氏族の出であったことに留意したいものです。「那賀」は長で、蛇の意味の「ナーガ」に通じますし、「那珂」だと和邇氏族の起源地・筑前国那珂郡にも通じます。この辺りの事情は、宝賀会長の論考「猿女君の意義-稗田阿禮の周辺-」(『東アジアの古代文化』106~108号、とくに107号所収部分)に記述されています。
田原本町は鏡に関する神社も3つはあり、ずっと気にかかっている場所である。
上記によると「大井神社」が「鹿島明神」とイコールになっている。