復習も兼ねて、中原成行、中原政康に関しての情報を集めてみよう。
中原成行は1106年(長治三年)の時に、院の召次勾当であり、院召次所に所属し、院中の雑事・御幸の供奉などを勤めていた。
平戸記には「能登権守中原成行」と残されている。
また、系図の註には『愛智郡大領』『近江国七郡郡司賜 始 住愛智郡長野郷…』
七郡…平安時代、いくつ郡があったのだろう。
wikipediaによると平安時代とは限らないようだが、近江国には12の郡があった。とすると当時は半分以上が中原成行が郡司を務めていたことになる。
当然一人では無理なので、成行の兄、弟、息、甥、などもその手足となっていたのではないだろうか。
時代は平安時代後期から鎌倉時代となると思うが、中原政康が気比神社に40年も神人(養子として入ったようである)としていたことがわかっている。
大番役を務めるようにと(守護から)中原政康に催促が来ていたが、それを断っている。
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-0a1-02-02-03-05.htm
政康の書状には、
『自分は先祖以来「兵の氏」ではなく「弓箭の道」を永く絶っており、敦賀郡に居住して日吉神人であるとともに、「気比大菩薩神奴」(気比神人)を兼ねた養父の跡を継いですでに四〇年も当郡に居住しているが、大番役を勤めたことはないと強調』とあったそうだ。
政経と関係があるとすれば、成行の兄であった経行の系となるのではないかと思う。
前回に中原友景が成行の系からでていることがわかったが、
政経が三左衛門事件の為に逼塞していた為か、名前が出ていないのだが、経行の系と思う。