先日、佐治重家と中原友景(西園寺家の後見と言われていた)のことを調べていて、友景を中原景安の息と位置付けたが、近江国御家人井口中原系図の中では、
景康ー友景…とあり兄(弟)にあたる光氏が見えない。
また、鎌倉幕府に仕えた楽士の系図を見ると、景安ー光氏とあり、(兄)弟にあたる友景が見えない。
中原有安の養子となった景安は、東国に光氏の系を残し、
有安の養子となる以前なのか?景康の次男友景からつづく系は、近江国の中で続いていたと思われる。
特に中原友景は、院の下北面の武士、又、西園寺家の武家との申次の役を担うものとして重要な立場にいた。
が、あくまでも景安=景康という、想像である。
景安・と景康が『別人』であった可能性もあると思う。
が、友景、下記の系図からもわかるように石見守となっている。
その部分が、私には清原氏と中原氏の接点でもある有安が関係している証拠と見ているのだが、どうであろうか。
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さて、後嵯峨院の許で北面武士となっていた友景は、1217年修明門院の下北面を皮切りに、検非違使、案主、等を務め、後嵯峨院にも仕えていたようである。
小中次なので、次男と思う。 景康の註には藤堂中太とある。
最後の孝景、高山公実録 藤堂高虎伝に
「能登守仕足利義輝弘治二年叙從五位下藤堂孫二郎中原朝臣高景父八從五位下藤堂因幡守中原景保属佐々木京極家賜高字怎子孫為 ...
三井出羽守二男「高虎にあらす又系図によるに景氏の子二人あり兄を孝景といひ弟を政景といふ高信君は政景の統にして孝景 ...」
三井高信。
千載集の有安の和歌を紹介します。
満三七日已乗六牙白象のこころをよめる
中原有安
待ち出でていかに嬉しくおもほえんはつかあまりの山の端の月
3✕7=20日余り、6本牙白象とは釈迦如来の事です😉普賢菩薩もこの象に乗っております。
まあ、余り関係は無いですが。