永原氏にこだわってみると淳和天皇の女御に【女御:永原原姫(亭子女御) 】がいる。
その猶子が 源定(815年 - 863年)だという。
源定 コトバンク
没年:貞観5.1.3(863.1.25)
生年:弘仁6(815)
平安前期の公卿。正三位。四条大納言,賀陽院大納言,楊梅大納言と称される。嵯峨天皇皇子で母は百済王慶命。賜姓源氏。母が天皇の寵妃であったためか幼少より父の愛厚く,父の退位後,淳和天皇に預けられ猶子となった。淳和はわが子以上に定を寵愛し,妃の永原氏に養育を託したことから世に「定には二父二母あり」といわれた。14歳のとき淳和天皇は親王にすることを嵯峨上皇に請うたが許可されなかった。貞観1(859)年,大納言に昇る。宮廷の奥に育ち性質は温厚で上品であったという。音楽を愛し,家には常に鼓と鉦を置き,公務を退くとこれに耳を傾けたという。
*****
永原原姫
広隆寺に多額の財を寄進したことでも知られており、現在の講堂の本尊である阿弥陀像などは原姫によって寄進されものである。
何と、私の好きな像はこの永原原姫によって寄進された仏像だったのかもしれない。
広隆寺は秦氏の氏寺である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA#%E5%9B%BD%E5%AE%9D
平安時代の歴史と文学より ↓
緒継女王が永原氏を称した確証はないけれども、緒継女王は死の直前の十一月三日に、大和にあつたその田地家地を「家別当永原利行」に賜つてゐる(唐招提寺文書、平安遺文一原氏は世に「亭子女御」と呼ばれたといふ。また続日本後紀承和十四年十一月七日条 ...
wikipediaによると、この緒継女王に仕えていたのが永原原姫(永原亭子)という事のようだ。
源定を育てた女性であることには間違いないと思われる。
永原とは地名だったのか、はたまた父の苗字だったのか。
近江国内の「永原」を調べてみると、長浜・近江八幡・野州と何カ所か見つかった。
そういえば、余呉の「呉」も、呉から来た人々がいたのかもしれない。
アチラコチラに土地を持っていた永原氏。
佐々木氏が入ってくる以前は近江国全体にいたのが秦氏系の永原であったとか?
その後、中原が入り、佐々木氏が入り‥‥と??