佐々木京極氏や多賀氏の戦国時代を調べていて「浅井直種」という人物をwikipediaに見つけた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E7%9B%B4%E7%A8%AE
伊庭の乱や水茎岡山城の戦いでも、京極氏の助けを借りている。
佐々木六角氏と戦うことは、佐々木京極氏とも繋がる事でもあったと思うので、
この辺りの関係から何かわかるのではないだろうか?と思って調べていたら、
京極氏自体もお家騒動があり、分裂している。
カオス的な戦国時代である。
「 明応5年(1496年)、美濃国守護・土岐氏の内乱(船田合戦)において、石丸利光討伐のため美濃守護代格斎藤妙純が近江守護・京極氏に援軍を求めた時には、直種も京極方援軍として出陣している。利光はこの戦いで敗れ自刃している。
京極氏のお家騒動(京極騒乱)では、直種は京極材宗と共に文亀元年(1501年)に京極高清・上坂家信と戦う。」
九里種信の時代は、たぶん京極政経の近江守護時代である。
細川勝元の時代である。(政元の父)京極持清の妹は勝元の妻となっている。
この流れが、九里氏も「細川政元」の指示のもとに戦うことに巻き込まれたことにつながると思う。
応仁の乱時には、伊庭雪隆は六角高頼のために戦っている。
しかし、その後佐々木六角氏と伊庭氏の関係がぎくしゃくし始める。
伊庭の乱に発展していくのだが、
wikipedia「伊庭氏の乱」の備考をここにコピーさせていただく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%BA%AD%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1
備考
従来、伊庭氏の乱は伊庭氏が守護代の地位を背景に権力を強めて六角氏の守護としての権力を脅かした結果として排除されたと解されてきた。
しかし、六角氏内部の研究が進むにつれて、六角氏と伊庭氏の権限の衝突を示すような文書等は確認できず、他の要素に原因を求めるようになった。1つは『文亀年中記写』という記録に登場する伊庭氏と馬淵氏という同じ六角氏の重臣同士の対立である。これは伊庭氏とその被官であった永原氏の居城である馬淵城と永原城が第一次の乱の際の攻撃目標になっていることからも裏付けられる。なお、乱の過程で馬淵氏も没落したらしく、被官であった永原氏は馬淵氏から自立して六角氏の傘下でありながら室町幕府とも直接関係を持って野洲郡に台頭していくことになる。
もう1つは明応の政変以降の外交関係に原因を求める考えである。前述のように、明応8年(1499年)に前将軍・足利義材(後の義稙)が将軍職に復帰するために六角氏に協力を仰いだ際に六角高頼と伊庭貞隆はこれを拒んだものの、前述の馬淵氏や蒲生氏のようにこれに応じる動きを見せる動きもあった。六角高頼はかつて義材による討伐を受けた(六角征伐)ことから現将軍である足利義澄やその後見人である細川政元との関係を維持していたものの、義澄も将軍就任直後には高頼に代えて前述の山内就綱を守護に立てようとするなど必ずしも円満ではなく、後に高頼は義澄と距離を置くようになる。六角家中が足利義材派に転じていく中で、従来通り足利義澄派に留まって政治的に孤立していった伊庭貞隆が高頼の不興を買った結果として挙兵に至った、とみられている。実際、細川政元が赤澤氏を伊庭氏の援軍として派遣したり、両者の仲介にあたったりしているのは、近江国内に義尹方の勢力が広がるのを阻止する狙いがあったと考えられている。ところが、細川政元が暗殺されたことで始まった永正の錯乱の結果、大内義興の支援を受けた足利義材が復帰して細川高国が細川京兆家の当主となり、京都を脱出した足利義澄を伊庭氏の被官である九里氏が受け入たことで、永正7年(1510年)2月には細川高国が足利義材の許しを得て九里氏とその主君である伊庭氏の討伐を開始した。戦いは細川澄元の支援を受けた伊庭氏・九里氏の勝利に終わったものの六角氏は救援には応じず、次第に六角氏と伊庭氏の間に溝が深まったとみられている。なお、足利義澄を九里氏が受け入れた際に義澄派である主人の伊庭貞隆がどこまで関与していたかは不明で、結果的に伊庭貞隆は強硬派のとばっちりで細川高国の討伐を受け、主君である六角高頼からも見捨てられる構図になってしまった可能性もある。
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九里氏が匿ってしまったがために‥‥だったのだろうか。
第一次伊庭氏の乱の際には、九里氏はいち早く駆けつけて共に戦っている。
その為に、伊庭氏は九里を捨てきれなかった面もあったかと思う。
持ちつ持たれつ…
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浅井直種に話を戻そう。
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浅井直種と直政
浅井蔵人丞直種
文明年間(1469-87)において、『清水寺再興奉加帳』には伊香郡の井口氏や坂田郡の上坂氏と並び江州の浅井蔵人丞直種の名前が記されています。
『江北記』には、備前守(亮政)の親である浅井蔵人が下坂氏の屋敷を攻めたとありますので、この浅井直種が亮政の父親のようです。
また、明応5(1496)年には美濃国で起きた反乱(船田合戦)が隣国にも影響を及ぼすことになり、京極氏は美濃国に出兵していますが、先陣として派遣され凱旋した浅井もまた直種だと『東浅井郡志』では記しています。
文亀元(1501)年に京極氏の執権である上坂氏を除こうとして京極材宗をたてて今浜で戦って討ち死にした浅井も直種のことです。
浅井井三郎直政
浅井氏の当主、浅井井三郎直政ですが、父親は不明、母親の名は慶集と記されています。
直政の正室は妙祥で、そこに生まれたのが蔵屋です。ただ、男子には恵まれなかったため、直種の子である亮政を蔵屋と結婚させ、彼を婿養子として家督を継がせています。
浅井氏の系図については、この直政、直種から始めるのが一般的です。
近江国御家人井口中原系図にも浅井氏の妻となった人物が出てくる。
信長に指を一本ずつ切られても屈しなかった「阿古」である。(この系図では「安古」)