巻一
尾州稲木庄宮後村安井屋敷の覚え 南窓庵記併亀斎扣 寛永寅写(十五年 1638年)
亀斎 = 小坂雄善
一、
安井屋敷 蜂須賀小六罷り住しは天文の頃初めなり
東方前野境
安井弥兵衛 土岐郡土岐氏の被官人 其の源は甲斐武田の流れ 逸見冠者の由緒の家柄
承久 尾張川の合戦以後土岐氏の被官と成る
先祖 小次郎尉長義の室は安井女
宮後村八幡社落成につき阿州より三家臣代参の事
一、付けたりの事 達禅扣(吉田雄翟)
社人は三輪氏取り持ち候
この家蜂須賀氏に由緒あり
蜂須賀蓬庵殿安井屋敷にてご誕生 蓬庵 = 家政 =八幡社大旦那
阿州 蜂須賀蓬庵家政公 落成のみぎり 御重臣衆名代として差し遣わされ候
野々村
佐々勘兵衛 阿州へ御伴罷り候ゆえに候なり(宮後村寺三輪若狭の家より寺入り)
稲田九郎兵衛
前野兵太夫
前野伝左衛門 三人衆
今枝重右衛門
稲田九郎兵衛 = 岡田稙元(大炊介)の御嫡子
岡田大炊介殿 御内儀は当家先祖 小次郎尉宗康の女(尾州稲木庄寄木の産)
生駒右近 = 善長 =生駒家長(雲球殿)の御嫡子
善長 = 生駒因州(利豊)御舎兄
足立甚右衛門
前野清助門 = 野田清助
吉田与助 = 正直
岩田九郎助
(親)喜左衛門 = 前野義康
(兄)清助 = 前野義詮
一、付けたりの事 p.50
前野将右衛門尉 長康 = 但馬守 =孫九郎尉(小坂雄吉)の舎弟
長康の息女於たえ殿 = 前野兵庫(小助) 忠康 の御内室
→ 藤堂伊賀守 高虎 親子共に洛北の岡田某の家に隠し置きなされ、御庇護なされ候 高虎と長康はご昵懇の間柄
長じて前野助左衛門 助左衛門の女は前の兵太夫の妻 四国讃州 生駒雅楽守(親正)へ元但馬守内ともども御召抱え一党中多数讃州に罷り居る
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長康の弟にも「勝長」忠勝の息にも「勝長」がいる。そのために混乱しやすくなってしまっていると思う。
ここで出てくる「忠康」とは舞兵庫・舞野兵庫助ともよばれている。系図には現れていない。
長康は「坪内光景(実名)」ともいわれているそうで、妻が前野 長義の娘。
長康の武功夜話上の父は前野 宗康となっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E9%87%8E%E5%BF%A0%E5%BA%B7
藤堂が前野一家を隠し庇護するために訪れた「岡田某」とは、いったい誰のことだったのかを知りたい。
洛北と書かれていた。
これはもしや、岡田堅桃斎のことではないだろうか? (見桃斎とも書く。)
藤堂は近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町在士)の江州中原氏の出である。
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稲田植元 父:稲田貞祐(大炊助)、母:前野彦四郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%B0%E6%A4%8D%E5%85%83
稲田貞祐
父・貞祐は、清洲の織田信長と内通しているという讒言により信安の命によって天文22年(1553年)3月27日に切腹させられた。植元は9歳の頃に父の朋友であった蜂須賀正勝に預けられた。なお、貞祐には四男三女があり、長男・景元は父の後を追って同年3月29日に11歳で自殺。次男・景継は永禄元年(1558年)3月29日に伊勢国で戦死。四男・吉勝はのちに植元の養子となっている。
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何処にも「岡田稙元(大炊介)」の名は出てこない。