今年の3月に下書きし、関係ないか~~とホオッテおいた記事であるが…
以前から気になっていたが、違うようにも…と思っている「平経久」小野党 石川氏(平子)
違うかもしれないが、またmemo的にここに留めておく。
石川二郎経長ー太郎入道経季ー太郎経久 である。
横山党でもある平子氏でもある。さらに三浦氏の流れともいう。
久良岐郷にいた人である。↓
534年 - 武蔵国造の乱後に献上された4つの屯倉の1つ、倉樔屯倉(のちの武蔵国の一部)は、「倉樔」(くらす)を「倉樹」(くらき)の誤記として、のちの久良岐郡にあたると推測されている。
郡衙の場所は判明していない。磯子区栗木、港南区笹下や、南区弘明寺にあったと推定されている。
700年頃 - 藤原京跡から出土した木簡に久良郡(これで「くらす」と読んでいたそうだ。)の文字
768年 - 続日本紀に「武蔵国橘樹郡人飛鳥部吉志五百国於同国久良郡獲白雉献焉」の記述
938年 - 和名類聚抄に、久良郡八ヶ郷(鮎浦郷、大井郷、服田郷、星川郷、郡家郷、諸岡郷、州名郷、良椅郷)の記述
1099年(康和元年) - 武蔵国司 藤原成実が港南区日野の春日神社を建立
1258年 - 伝法灌頂雑要抄に「武蔵国倉城郡六連庄内金沢村点越後守平実時…」の記述
1500年頃 - 北条幻庵が陣屋をおいたとされ、久良岐郡と呼ばれていた
1830年 - 新編武蔵風土記稿 巻之七十三 久良岐郡之一 郡図総説ほか
以下の方のブログにも詳しく書かれている。
https://jmpostjp.exblog.jp/6391623/
金沢文庫にも鎌倉にも海からだと千葉にも近い場所である。
周防国に赴いた平子氏の関しての文書も残っている。↓
http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/ags/2-1-2-010.pdf
平子氏に関して国立国会図書館デジタルで読むことのできる本があった。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1226554/104
相模平太夫為通が三浦半島全部を賜わり、その弟景通は現在の横浜市の一部に住し、平子式部太夫と言ったという説、章名が弟で、その息が景通という説がある様である。
さらに、藤原景通を調べると、一説では藤原利仁流にもなり、美濃国・源頼光との接点も出てきた。
野本氏 斎藤氏 倉栖氏 後藤氏
そうこの前、秋篠宮さんが親子で行った国際地図の展示でびっくりしたのが東京湾で旧石器からの縄文海進で一番の橋的な役割をした所どこかな?って思ったら神奈川と千葉一番距離近いあたりとは思っていたらどうもそうでもなかったんですよね。大陸棚まではいかないのかもしれないけどその海岸の陸地の高さが海までどう繋がるか?分かる地図があってそこではやはり伝説のある君津辺りでしたよ、すぐ渡れそうでした。
神奈川は横須賀ですかね、走水神社もありますし日本人が調査出来ない所もありますので鎌倉以前の歴史もいっぱい眠っていそうに思いましたよ、海の中にも。橋の工事がなくて良かったですよ。君津は古墳いっぱいあるし、鎌足関係の場所も谷や渓谷の奥まった所にもあるので関係しそうですね。
神奈川と千葉って時代が古くなればなるほど一体だったと思いますね。
こちらのタイミングなんですけど葛原親王がまた急浮上してきましてあの方この系統持ってますよ、経験的な統計ですけど。なので源氏も平家もベースはこちらの関係でしょう。
久良岐っていうととっても嬉しくなります、クラが倉になり、岐は樹の間違いや紀の関係だと奈良以前に一気に飛んでしまう可能性秘めてますね。古文書って都合悪い字はどうも気が付いた時変わっているパターンありますよ、それも転記違いとかあえて変えたとも人によれば思うようですからちょっと真実が動く可能性ある場所としても興味深々ポイントです。
あと石川氏に関しては、蘇我氏が一時石川氏になってルトようなんですけど個人的には石川氏がそもそも関東東北にいて奈良時代に蘇我氏に一時関わり蘇我氏が石川になってとされているようなんですけどそれじゃあ千葉や弟橘媛のお付きの姫の縁ある場所で考えるとちょっとおかしいんですよね。神の時代から縁ある場所ですので。神奈川には石川牧あり鎌倉時代はとっても重要な役割しているはず。そこから関西への玄関口は記事の辺りとも考えられますし。
江戸でも二代の時はかなり重要でしたけど三代で動いてます。石川氏って経験上出会った人でも本当ブレない信念持っているし、天性のものがあるんですよね。男系統かなり安泰な民族。そこと関わると安心なんですよね。
最近文京区とかやたら回ったけど小石川ってのもなんか石川氏と関係ないのかな?ちょっと思ったので探ってみます。
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