岡田竹右衛門の情報を集めている。
岡田竹右衛門 権平次
…という事は、名はわからないが、權平太(長男)もいたと思われる。
ちなみに弟は五味右衛門元保である。
(和歌山県の大智庵にある九里氏のお墓を守って下さっているのが「五味様」(昭和時代)
きっと、つながっていると思う。)
大津時隆:
?-? 戦国時代の武士。
徳川家康の家臣。永禄(えいろく)6年(1563)三河(愛知県)の一向一揆(いっき)にくわわり家康にそむくが,翌年降伏。剛勇で知られ,三河吉田の戦い,遠江(とおとうみ)(静岡県)小山の戦いで功をたてた。のち家康のもとをはなれ,武蔵(むさし)にうつった。通称は土左衛門。
石川忠総の家臣となっていたようである。
石川忠総は、コトバンクによると…
1582-1651* 江戸時代前期の大名。
天正(てんしょう)10年生まれ。大久保忠隣(ただちか)の次男。徳川家康の命により,外祖父石川家成(いえなり)の養子となり,慶長14年美濃(みの)大垣藩主石川家3代。19年実父忠隣の改易事件のため駿府(すんぷ)に幽閉されたが,石川姓ゆえにゆるされ,大坂の陣で功をたてる。加増をかさね,豊後(ぶんご)日田(ひた)藩主,下総(しもうさ)佐倉藩主をへて,寛永11年近江(おうみ)膳所(ぜぜ)藩主石川家初代。7万石。慶安3年12月24日死去。69歳。通称は宗十郎。
石川忠総
没年:慶安3.12.24(1651.2.14)
生年:天正10(1582)
江戸前期の近江国膳所藩(滋賀県大津市)藩主。実父は大久保忠隣,石川家成の養子。通称宗十郎。主殿頭に叙任。大垣,日田,佐倉を経て,膳所7万石を領す。慶長19(1614)年実父の改易事件に連座したが,石川姓であったため許された。(小柴良介)
大津時隆の妻は大久保忠俊娘である。
この石川氏・大久保氏は遡ると「宇津氏」となり、さらに遡ると「宇都宮氏」となる。という事は、中原氏につながっていることになる。
~~~*~~~
以下はgooglebook情報 其のままにコピーした。
三代岡田元直と政直の祖父民部少輔忠直が同母兄弟. ○六代岡田竹右衛門幸元(14)【有力幕閣へ縁故を持つ). ・家老職:最大時三千石領有. ・三代岡田元直兄弟である神尾元勝(trt-ty)の影響力. (神尾元勝は徳川家康の側室阿茶の局の娘を娶り、神尾家に.」
それを解剖してみる。
岡田元直…松井松平家の「松平康重」の娘が元直の室になっている。
岡田政直…大和宇陀松山藩の九里政直も、元は岡田政直であったはずである。
しかし、この人物は「土屋正直」であった。残念。。。
祖父 民部少輔忠直が同母兄弟.の意味は、以下の図で解明できた。(千葉氏のHPの中の相馬岡田氏)
竹右衛門と土屋忠直に注目。
神尾元勝 wikipediaより
岡田元次の子として誕生し、神尾忠重の夫人で、後に徳川家康の側室となった阿茶局の養女を娶り、神尾家に養子に入った。
阿茶の局 ジャパンナレッジより
阿茶局
あちゃのつぼね
[1555―1637]
徳川家康の側室。名は須和(すわ)。甲斐武田氏の臣、飯田直政(なおまさ)の娘。駿河今川氏の臣、神尾忠重(かんおただしげ)と結婚したが、1577年(天正5)、一子を抱えて寡婦となる。2年後、家康に仕え、阿茶局と称した。しばしば戦場にも従い、1584年の小牧長久手の戦いの際には戦場で流産した。才知に優れ、1614年(慶長19)の大坂冬の陣のときには、淀君の妹で京極高次の妻常高院(じょうこういん)とともに大坂城に入り、和睦の使者をつとめて淀君・秀頼母子の誓書をとるなど、政治的役割も果たした。1616年(元和2)の家康没後も、家康の命により髪を下ろさなかった。1620年、秀忠の五女和子(かずこ・まさこ)(東福門院(とうふくもんいん))が後水尾天皇(ごみずのおてんのう)のもとに入内したときは、和子の母代わりとして上洛。また1623年の皇女(のちの明正天皇(めいしょうてんのう))出産の際にも上洛して世話した。後水尾天皇より従一位の位を与えられ、神尾一位局とも言われるようになった。1632年(寛永9)、秀忠の死後剃髪し、雲光院と号した。
[関 民子]
~~~*~~~
伊賀守元忠(元次の父といわれている??)
浪六全集 第6編
https://books.google.co.jp/books?id=5vagJYSeYmAC&pg=PP398&dq=%E4%BA%94%E5%91%B3%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjS6L_ntpPhAhWOFIgKHUy6AJUQ6AEINzAD#v=onepage&q=%E7%AB%B9%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&f=false
http://chibasi.net/hanshu2.htm
長篠の合戦 岡田五兵衛(長篠城籠城方・奥平方)
岡田竹右衛門元次(徳川方・鳶ヶ巣山攻略)
この竹右衛門の系がやがて十右衛門とつながってくるのだろう。…と仮定してみたが…
岡田竹右衛門 権平次
…という事は、名はわからないが、權平太(長男)もいたと思われる。
ちなみに弟は五味右衛門元保である。
(和歌山県の大智庵にある九里氏のお墓を守って下さっているのが「五味様」(昭和時代)
きっと、つながっていると思う。)
大津時隆:
?-? 戦国時代の武士。
徳川家康の家臣。永禄(えいろく)6年(1563)三河(愛知県)の一向一揆(いっき)にくわわり家康にそむくが,翌年降伏。剛勇で知られ,三河吉田の戦い,遠江(とおとうみ)(静岡県)小山の戦いで功をたてた。のち家康のもとをはなれ,武蔵(むさし)にうつった。通称は土左衛門。
石川忠総の家臣となっていたようである。
石川忠総は、コトバンクによると…
1582-1651* 江戸時代前期の大名。
天正(てんしょう)10年生まれ。大久保忠隣(ただちか)の次男。徳川家康の命により,外祖父石川家成(いえなり)の養子となり,慶長14年美濃(みの)大垣藩主石川家3代。19年実父忠隣の改易事件のため駿府(すんぷ)に幽閉されたが,石川姓ゆえにゆるされ,大坂の陣で功をたてる。加増をかさね,豊後(ぶんご)日田(ひた)藩主,下総(しもうさ)佐倉藩主をへて,寛永11年近江(おうみ)膳所(ぜぜ)藩主石川家初代。7万石。慶安3年12月24日死去。69歳。通称は宗十郎。
石川忠総
没年:慶安3.12.24(1651.2.14)
生年:天正10(1582)
江戸前期の近江国膳所藩(滋賀県大津市)藩主。実父は大久保忠隣,石川家成の養子。通称宗十郎。主殿頭に叙任。大垣,日田,佐倉を経て,膳所7万石を領す。慶長19(1614)年実父の改易事件に連座したが,石川姓であったため許された。(小柴良介)
大津時隆の妻は大久保忠俊娘である。
この石川氏・大久保氏は遡ると「宇津氏」となり、さらに遡ると「宇都宮氏」となる。という事は、中原氏につながっていることになる。
~~~*~~~
以下はgooglebook情報 其のままにコピーした。
三代岡田元直と政直の祖父民部少輔忠直が同母兄弟. ○六代岡田竹右衛門幸元(14)【有力幕閣へ縁故を持つ). ・家老職:最大時三千石領有. ・三代岡田元直兄弟である神尾元勝(trt-ty)の影響力. (神尾元勝は徳川家康の側室阿茶の局の娘を娶り、神尾家に.」
それを解剖してみる。
岡田元直…松井松平家の「松平康重」の娘が元直の室になっている。
岡田政直…大和宇陀松山藩の九里政直も、元は岡田政直であったはずである。
しかし、この人物は「土屋正直」であった。残念。。。
祖父 民部少輔忠直が同母兄弟.の意味は、以下の図で解明できた。(千葉氏のHPの中の相馬岡田氏)
竹右衛門と土屋忠直に注目。
神尾元勝 wikipediaより
岡田元次の子として誕生し、神尾忠重の夫人で、後に徳川家康の側室となった阿茶局の養女を娶り、神尾家に養子に入った。
阿茶の局 ジャパンナレッジより
阿茶局
あちゃのつぼね
[1555―1637]
徳川家康の側室。名は須和(すわ)。甲斐武田氏の臣、飯田直政(なおまさ)の娘。駿河今川氏の臣、神尾忠重(かんおただしげ)と結婚したが、1577年(天正5)、一子を抱えて寡婦となる。2年後、家康に仕え、阿茶局と称した。しばしば戦場にも従い、1584年の小牧長久手の戦いの際には戦場で流産した。才知に優れ、1614年(慶長19)の大坂冬の陣のときには、淀君の妹で京極高次の妻常高院(じょうこういん)とともに大坂城に入り、和睦の使者をつとめて淀君・秀頼母子の誓書をとるなど、政治的役割も果たした。1616年(元和2)の家康没後も、家康の命により髪を下ろさなかった。1620年、秀忠の五女和子(かずこ・まさこ)(東福門院(とうふくもんいん))が後水尾天皇(ごみずのおてんのう)のもとに入内したときは、和子の母代わりとして上洛。また1623年の皇女(のちの明正天皇(めいしょうてんのう))出産の際にも上洛して世話した。後水尾天皇より従一位の位を与えられ、神尾一位局とも言われるようになった。1632年(寛永9)、秀忠の死後剃髪し、雲光院と号した。
[関 民子]
~~~*~~~
伊賀守元忠(元次の父といわれている??)
浪六全集 第6編
https://books.google.co.jp/books?id=5vagJYSeYmAC&pg=PP398&dq=%E4%BA%94%E5%91%B3%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjS6L_ntpPhAhWOFIgKHUy6AJUQ6AEINzAD#v=onepage&q=%E7%AB%B9%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&f=false
http://chibasi.net/hanshu2.htm
長篠の合戦 岡田五兵衛(長篠城籠城方・奥平方)
岡田竹右衛門元次(徳川方・鳶ヶ巣山攻略)
この竹右衛門の系がやがて十右衛門とつながってくるのだろう。…と仮定してみたが…
奈良の御所市のゴセですけどセと読みますね。
所をセと読み場所ってどうも関係ありそうなんですよね。もっと探してみますけど、土蜘蛛かなあ?手長もかなぁ?葛城ですから、葛の城ですけど葛じゃなくクスで薬とか楠とか樟とか?面白くなりますね。
石川も大久保も好きな民族なんですけど、家康ってやたら養子や養女で繋いでいて判別不能で困ってしまいますよね。
結果大久保の子を石川の名字で護れたと思えばいいんですかね?で石川の強さって私も一目置いてます。蘇我じゃないんです、石川なんです。そこだけ伝えておきますね。惑わされますので。そうそう蘇我姫もこの前サッカーの試合観に行った時に行ったんですけど石川の娘って事かな?弟橘媛の侍女だったはずですよ。で地域からの慕われ度があるんだから地元と関係あるはず。石川牧は神奈川ですけど千葉にも石川牧あったかな?膳所と記事にありましたけど食べ物や馬を献上していた方が石川さんでしょうね。
そう膳所(ゼゼ)って読むんですよね。カジワデ氏っ手長かな?神様にお供物を捧げるお役目だったっけ?
あと所をゼと読む場所もう一個奈良か大阪にあったんですよね?探してみます。