肥前左衛門太郎経久=深江蓮忍 わが祖はこの人物也!となるか?
寛元四年(1246)三月十三日条の有間左衛門尉朝澄が見え、その所領について越中七郎左衛門次郎政員の訴を却下したと記されている。
深江文書には、その翌年の宝治元年(1247)に六月五日付けの高来郡東郷内深江浦地頭職の譲状には、先祖相伝の所領を深江入道蓮忍に譲り渡す者として左衛門尉平朝澄と記されいる。
この当時、有間氏は平朝臣姓を名乗っていたことが分かる。
この有間左衛門尉平朝澄は、有間を初めて名乗ったとされる経澄の子の友澄に比定されている。
~~~*~~~
前回の蓮忍は、地頭肥前左衛門太郎経久ではないか・・と思われたのだが、ここでは、平持澄ではないか…となっている。
三浦との関係があるので、三浦義澄の息に【三浦友澄】がいる。この人物ではないだろうか。
しかし、持澄は分からなかった。残念。
~~~*~~~
三浦ではなさそうである。
系図を見ていて、三浦十郎友澄は承久の乱で亡くなっているのである。(1221年)
肥前の朝澄は三浦氏ではなく、別人である。
もう一度調べてみる必要がある。
寛元四年(1246)三月十三日条の有間左衛門尉朝澄が見え、その所領について越中七郎左衛門次郎政員の訴を却下したと記されている。
深江文書には、その翌年の宝治元年(1247)に六月五日付けの高来郡東郷内深江浦地頭職の譲状には、先祖相伝の所領を深江入道蓮忍に譲り渡す者として左衛門尉平朝澄と記されいる。
この当時、有間氏は平朝臣姓を名乗っていたことが分かる。
この有間左衛門尉平朝澄は、有間を初めて名乗ったとされる経澄の子の友澄に比定されている。
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前回の蓮忍は、地頭肥前左衛門太郎経久ではないか・・と思われたのだが、ここでは、平持澄ではないか…となっている。
三浦との関係があるので、三浦義澄の息に【三浦友澄】がいる。この人物ではないだろうか。
しかし、持澄は分からなかった。残念。
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三浦ではなさそうである。
系図を見ていて、三浦十郎友澄は承久の乱で亡くなっているのである。(1221年)
肥前の朝澄は三浦氏ではなく、別人である。
もう一度調べてみる必要がある。