御家人井口中原系図の経任の横には【改橘氏】と追記されており、次に九里太郎蓮忍入道となる。(九里の祖)
その系図は天武天皇から始まっている。
しかし、その天武天皇妃は新田部皇女であり、天智天皇の娘となる。
天智天皇・天武天皇の母親が皇極天皇として、天智天皇か天武天皇のどちらかの父親は高向王となると思う。
高向王は用明天皇の孫である。
用明天皇の又の名前は『橘豊日命』であり【橘】がついている。
用明天皇の三番目の息子が麿子皇子である。又の名前を当麻皇子という。
麿子皇子から先は、『日本の苗字七千傑【当麻氏】』を見ていただきたい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01238.htm
榎井を入れず18代目が【功力】の祖である。
宝賀寿男先生の『古代氏族系譜集成』を図書館で見たが、
鶴五郎康祖(八嶋の合戦戦死)~(功力祖=) 大二郎 ~ 四郎・・・となっており、三郎が不在である。
1185年八嶋(屋島)の合戦で鶴五郎康祖が亡くなっている。
・・30歳くらいで討ち死にしたと仮定し、四郎は1200年前後生まれくらいと思われる。
その頃から戦国時代に戦っていた『九里三郎左衛門』にまで、つながるのであろうか。
1200年代と言えば、九里の祖が御家人井口中原系図に書かれた時代と同時代である。
そして、九里の祖である蓮忍と「丹波国 河守荘の地頭」(丹後国河守荘でもある。途中で分かれている。)として文書が残っている沙弥蓮忍とが、この「功力」の登場でつながるのかどうか。。。
功力は遡っていくと当麻真人である榎井につながり、麿子皇子につながっている。
麿子皇子の伝説の場所がその丹後国の河守なのである。(九里太郎蓮忍が地頭職に補任されていた場所)
「功力」であれば、系図上問題なくつながる。
しかし、御家人井口中原系図の中は「九里」である。
【九里三郎左衛門で、功力三郎左衛門とも云う・・・】と言われた人物は、天正時代だという。(姓氏家系大辞典・クノリ)
たぶん、信長にスパイ容疑をかけられた、あの九里三郎左衛門の事だと思う。
彼は【浅井】に兄弟か親戚がいて、そこに出入りしていたのだと思う。浅井日記にも登場している。
永田景弘の舎兄となる人物である。
永田七郎右衛門の記載のある過去帳に「又称 九里氏」と書かれており、永田氏が九里の養子になっていた可能性もある。又は婿養子かもしれない。
反対に九里が永田に養子に入って、永田七郎右衛門を名乗り、実は九里なのだという意味かもしれない。
九里は私の考えでは、大津宮からちょうど36Km(九里)ほどで九里村、二里前にはちゃんと七里村もあるため、距離の単位でつけられた名前ではないかと思う。
そこに地頭か何かで入ってきた功力氏が在名として九里と名乗ったのかもしれない。…と思う。
中原氏から橘氏となり功力氏に変わったのではないだろうか。何かの役職に就くために…など、何らかの都合で橘氏になってすぐに功力氏になったのではないだろうか。
下記のような突飛な発想で申し訳ないのだが、考えていることを書いておく!というのがこのブログの目的の一つでもあるので、ご了承願いたい。
功力くぬぎ → 櫟くぬぎ → 櫟いちい → 市井氏・一井氏・櫟井氏 となったか?
市井氏は目加田(比牟礼八幡宮 )と関係が深い。九里も目加田と兄弟関係になっていたこともある。
一井氏は伊庭氏と関係があり、これまた伊庭氏の被官であり、共に戦った仲間でもある。
櫟井氏はweb情報によると、真野氏と関係があって和珥氏族であって、蒲生郡に属した近江八幡市辺りには和珥氏族の櫟井臣氏が居て、比牟礼八幡宮の神主家につながるとみられる。
市井という地名も比牟礼八幡の近隣にあり、氏子地域になっていますし、浅井郡の櫟井氏は『明匠略伝』相応和尚の伝で知られます(『姓氏家系大辞典』イチヒヰ条)。
なので、浅井郡・近江八幡という場所が九里と一致している。
比牟礼八幡宮を調べると、またまたweb情報だが、
もとは延喜式内社の大島神社(大島郷)と奥津島神社(奥島村)を併せた形。
これに船木郷の比布礼社が加わる形となっており、比布礼社は大島神社と合わさったときに比牟礼社になり、それがさらに比牟礼八幡となりますが、日触八幡という別称もありました。
「比布礼・日触」というのは、近江の和珥氏族の祖のヒフレのオミ、すなわち「和珥臣の祖・日触の使主(『書紀』応神段)、丸邇の比布礼の意富美(『古事記』応神段)」のことであり(志賀剛著『式内社の研究』第七巻)、真野臣や櫟井臣はその一族の後裔とされます。
とあった。
荘園関係で、歴博のデータベースで日牟礼庄を検索すると【源重定】がでてきた。またの名を【山田築後守源重定】という。
角川地名=嘉元4歓喜光院領=承久3源重定を代官職に補佐=現近江八幡市市井町を中心とする地域か
比牟礼神社あり・嘉元4昭慶門院領目録=歓喜光院領=近江国比牟禮庄=洞院前右府、大納言局(藤原為世女)
舟木庄の代官であった九里である。おまけに奥津島の在地の人々にお金まで貸して返してもらっている証文が残っている。
甘櫟前神社という神社が、近江国伊香郡の中原景経が関わっていた富永庄よりも長浜に近い所にある。
【くぬぎ】から【いちい】へはあまりに飛躍が大きいかもしれないが、接点も多々あるとおもう。
九里は江戸時代入る直前か入ってすぐに【岡田】と改名している。
岡田との接点を探ると出てくるのが、八嶋冠者であり、岡田であり、山田であり、浦野なのである。
書くには書いたが、頭の中は混乱している。
東京大学史料編纂所データベースの櫟木文書。
相馬御厨の荒木田・度会の出てくる櫟木文書の「くぬぎ」も関係があるかもかもしれない。(下賀茂神社関係)