九里 【九里】を探して三千里

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源行真申詞記に関しての考察(2)

2016-04-23 | 功力と櫟

九里とどう関わってくるのか。


まず、キーワードになると思われる『新六郎』友員の『新』にこだわってみる。

櫟氏の櫟神から新と替えて出てきたか。

神職であった可能性もあるので、その神・信じる・・・などからきた発想かもしれない。

櫟井氏とは、もとは和邇臣の祖 日触使主(姉妹)の系なのだそうだ。

日牟礼八幡宮の社伝によれば、131年、第13代成務天皇が高穴穂の宮に即位の折に、武内宿禰に命じ、現在のこの地に大嶋大神(地主神)を祀られたのが、社の鎮座の始めとされています。

社伝を続けると、
 
應神天皇6(275)年、天皇が近江に行幸されました。

その際奥津島神社に参詣され、還幸の折に宇津野々辺(社の近辺と見られる)にて御少憩になり、当地に御座所が設けられました。

年を経た後、その御仮屋跡に日輪の形を2つ見るとの奇端があり、祠を建てて「日群之社八幡宮」と名付けられました。

持統天皇5(691)年には藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟礼社と改められた旨も伝えられています。


そもそも日牟禮社の社名は、日觸の転とする説があり、和珥・日觸使主に由来します。

日觸使主を始めとする和珥氏は、應神天皇に深い縁故を有し、同族の櫟井氏とともに江州(=現在の滋賀県地方)土着の氏族です。

古来わが国の各地に分布していた氏族の多くは、その祖神あるいは紙祇を奉祀していました。

この一般例に鑑みると、当社は同族の人びとがその祖神を祀る斎場に、縁故深い八幡大神を合祀したものと考えられます。

・・・とある。

武内宿祢が依頼されて大嶋大神(地主神)和邇氏の祖神を祀ってくれたということは、「武内」は「紀氏」でもあるので、あながち無関係でもなさそうである。


さて、その奥津島神社文書に『櫟井爲延』の名前が残っている。

昔の地図を見ると、今とは全く形が違っており驚くばかりだが、今の八幡であろうと思われる辺りには確かに神社があり、多賀村や舩木村が見える。


源行真の友員が殺された事件は1142年であり、九里の祖が生まれたのは1200年代なので、開きがあるのでこの事件とは直接は関係ないかもしれない。

しかし、永原氏が何かがあってずっと佐々木氏庶流であることを正式に表に出せないことと同じように、一族の中での殺傷事件は禍根を残すこともあって、その氏を一族の系に入れないことが一番なのではないだろうか。

そこで友員が先に手を出したための事件ということで、その氏が明らかにされていないのだと思う。

真野氏には佐々木から荘を任されて真野になった人と、近江に奈良あたりから移り住んできた真野氏がいたと思うのだが、その『新』が、もしも櫟井氏とつながる真野氏であったとして、真野氏が中原氏に入るとは公式には言えぬため橘氏となっていたのではないだろうか。

一度橘氏になってから「九里」になったのではないだろうか。(真野氏を橘氏と名乗らせて。)

さて、櫟井氏は高宮氏に通じるという。中原系の多賀氏にも通じ、高宮の系からは山内氏も出ている。


~~~*~~~


もう一つ、中原氏の成行の系に(九里は経行の系)新宮氏が養子に入ってきている。(愛智郡である)中原季仲である。(新で、思い出した)

その新宮氏は二つの系がある。

ひとつめは、鎌倉時代~室町時代初期にかけて陸奥国(後の岩代国)耶麻郡新宮荘(福島県喜多方市)を支配した氏族。本姓は平氏。佐原義連の子・盛連の六男・時連を祖としている。

ふたつめは、清和源氏の一族である新宮氏は、源為義の子の行家(新宮十郎)を祖とする。



~~~*~~~

そこで、先ほどの『源行真申詞記』に戻る。

はじめはこの新六郎友員の新は新宮かと思ったのだが、真野の真であると思う。


佐々木経方の六男行範が祖となる乾氏の分流が真野郷を領して真野氏を称したという。こちらが佐々木系の真野氏。両真野は時に連れて同化したと思われる。

…ということは、もう一つの謎であった水茎岡山城の最後の城主か…と思われていた「乾甲斐守」の解明にもつながってくる。

~~~*~~~


そして私は、偶然とはいえ、友員の仕事を調べていて驚愕の事実を知ってしまったのだ。

友員の仕事とは、前回の記事に書いたように『崇徳院に仕え、成勝寺領伊庭庄の下司を勤めていた。』のである。

その崇徳院との関係を探っているうちに、下記の事実が判明した。


�崇徳天皇の母親は藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ、康和3年(1101年) - 久安元年8月22日(1145年9月10日))は、平安後期の国母。鳥羽天皇の中宮で、崇徳・後白河両天皇の母。女院号は待賢門院(たいけんもんいん)である。

�藤原 璋子の実の父親は藤原公実である。

�公実の三男は西園寺通季(1090-1128) - 西園寺家祖である。

�通季の兄弟に、三条実行・璋子、そして源有仁室がいるのである。有仁は前出の行真の次男の勤め先である。

�通季の息が公通である。

�公通の次男が、なんと九里と関わりがあるとずっと調べて来ていた『藤原実明』だったのである。


先に道正の母と弟を殺した友員。その友員の出自が真野氏か櫟井氏である。…というのが、今回の私の予想である。


≪ありがとうございます。≫→ 宇宙全体へのお礼です。


今まで、迷いに迷ってきた道が九里の祖まではつながったように思えるのです。

祖の続きに、はたして私につながる九里が見つかるでしょうか。これから頑張ります!








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