埼玉県の苗字のサイトを見ますと、「功力」は「くぬぎ」ではなく、「くのき」と読むそうです。
普通の読みは「くぬぎ」だと思います。が、もしも「くのき」だったなら・・・
「我こそは、くのりさぶろうざえもん也~」と叫ぶのが「我こそは、くのきさぶろうざえもん也~」と聞こえた人がいたのかもしれません。
・・・とも思ってみたりしましたが、やはり考えたことは書いておこうと思います。
「くぬぎ」と音で聞いたのを漢字に置き換える時に「功力」の漢字をあてはめてしまったか、
若しくは「櫟」(イチイ・・の意味で書いていた)と書かれていたのを「くぬぎ」と思って、そこから「功力」になってしまったか。。。(どちらにも読める漢字ですので、可能性はあると思います。)
通常は「九里村の九里」でも「九里村のクヌギ(クノキ)」でも、どちらでも何の支障もないため、訂正もしていなかったのか。。。わかりませんが、
クヌギ→イチイ説 でした。詳細↓
功力氏→櫟(くぬぎ)→櫟(いちい)→櫟井・一井・市井氏への変身で、功力=櫟井氏
(功力三郎左衛門とも云う…と書かれていた謎の箇所についての考察)
さて、今度は永田氏と九里氏の濃密な関係です。
永田刑部少輔景弘が九里三郎左衛門と【信長文書】に出ている部分が、東京大学史料編纂所のデータベースにあります。
元亀1年5月17日 (1570年)
近江永田景弘宛朱印状写
舎 兄 九 里 三 郎 左 衛 門 跡 与 力 ・ 家 来 、 寺 庵 (を永田にあてがう・・・私の記憶追記)
永田刑部少輔 殿 右 九 里 ハ 、 江 州 野 州 郡 入 日 岡 城 主 也 、・・・
右は・・・ということは、右の永田刑部少輔殿を指していると思われますので、永田=九里となります。
舎兄九里三郎左衛門の(スパイ容疑で)、与力・家来・寺庵が没収されて、永田氏(=九里)へ宛がわれるという文書だと思います。
野洲郡 入日岡城主也…と書いてあります。近江の城郭探訪様のページに様子が出ております。
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/6903d1a0d860054a4140ee7e32ab5618
信長に壊されているかもしれないそうです・・・
ただし、永田刑部少輔はこの後も信長の家臣として感状をもらったりしているので・・・永田氏が誅殺されたり、襲われたり…ではないのではと思います。
それと不思議なことが・・・九里甚左衛門という加賀前田家の家臣になった人物がおりますが、その「九里」が前田家に入る以前に、信長と共に墨俣川を渡り案内しております。
その人の名は、九里甚左衛門正貞。永田刑部少輔も本名は正貞なのだそうです。
どうしても同一人物のように、思えます。(思い込みが激しいだけかもしれません。)…別人であることの文書が出て来てしまった。。。がっかりです。。。
武家雲箋 東京史料編纂所 データベースより
元亀1年5月17日
織田信長、近江の永田正貞に所領を安堵せしむ、
織田信長,永田正貞
近江
安堵
そして、偶然なのかもしれませんが、江戸時代に九里と同じ藩に景弘とは別の系ではありますが、永田氏がおります。そして婚姻関係も結んでおります。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780393
九里は湖西にも湖東にも通じている部分があって、永田氏や田中氏他とのつながりはどうだったのかを調べることで、その理由がわかってきそうです。
明日はもう少し掘り下げたいと思っております。
ともかく、せっかくのすごいアイディアが消えないうちに、書いておきたいです。