善光は、父である義慈王の評判が良くなかったようだが、その裔である人には追贈で従一位にまで登った『慶命』や陸奥守となった『百済王敬福』等輩出した。
面白い話が論文に載っていた。
『百済太子余豊(豊璋)が蜜蜂の巣四枚を持って、三輪山(現:奈良県桜井市)に放ち飼いにしたが、うまく繁殖しなかったという。』
この豊璋の弟が善光である。
今日は、其の善光の裔(曾孫)である敬福の本より、気になる点を書き留めておきたい。
敬福は天平十年(737年)に大野東人の跡を継いで陸奥守になっている。
その前になるが、霊亀二年(716年)に武蔵国に高麗郡が置かれ、高麗人1799人を以って始められている。
wikipediaによると高麗郡は
716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗から渡来系移民1,799人を武蔵国の一部に移し、高麗郡を設置したとされる[1]。初代郡司は高麗若光で、666年に高麗の副使として天智天皇に貢ぎ物を捧げている[2]。
日本書紀に書かれた記録の一部は以下。天智5年(666年)「百済人男女2千余人東国移住」
天武13年(684年)「百済人僧尼以下23人を武蔵國へ移す」
持統元年(687年)「高麗人56人を常陸國、新羅人14人を下野國へ移住」「高麗の僧侶を含む22人を武蔵國へ移住」。
…とある。
天平宝字二年(758年)には、今度は新羅郡が置かれ 僧32人・尼2人・男19人・女21人を以って始められている。
その新羅郡とは、現在の新座だそうだ。
一本道路を渡ると新座であった志木に住んでいた私には驚きである。
調べてみると、志木市自体も新羅郡に含まれていたようである。
wikipediaによると新羅郡は
これより前、武蔵国には持統天皇元年(687年)と4年(690年)等も新羅人が移されていた。
天平5年(733年)「埼玉郡の新羅人徳師ら53人に金姓を与える」、
天平宝字4年(760年)「新羅人131人を武蔵の地へ移す」などがある[3]
武寧王も九州の加唐島生まれ、など、私には新鮮で、調べれば調べる程面白くなってきました。
久里双水古墳も、古墳上に6Cの痕跡もあるようで、、、気になっています。
何か痕跡が残っていないかなぁ〜っと、新座の歴史を探ってみたくなりました。
以前読んでもう忘れかけていましたが、百済王伝説が宮崎にあるそうです。
壬申の乱のときに百済王らが宮崎に逃げたその逆ルートが神武東征になっているとのことでしたので、覚えていました。目次を見たら古代養蜂についてもあります。もう一度探して読もうと思います。
百済王族伝説の謎―日向・百済・飛鳥はトライアングルだった 荒木 博之 三一書房(1998/08発売)
内容説明
キトラ古墳の主は百済王族、武寧王の棺は高野槇でつくられていた―。さまざまの史実と伝承が語る古代日韓交渉史の真実に迫る。
目次
序論 日向・百済・飛鳥はトライアングルだった
神門伝承の歴史と習俗
神宝『綾布墨書』の解読
師走祭りと百済文化
日本の太伯山と韓国の太白山
三韓・三国系文化伝播について
古代日向と飛鳥
日韓両地域の古代養蜂の分布と伝播経路
百済の文化、檐魯とトケビ祭り
解説 百済王族伝説の謎を解く
高麗郡は知ってましたが。