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1169年の久利文書 鎌倉時代が抜けていて 1336年久利家文書が再び出てくる。(8)日野資憲と藤原親光 の 周辺

2021-12-14 | 九里バラバラ情報

藤原親光は、中原飛騨守親光と同じ名前のために、調べたことがある。

この人物は、頼朝によって中原清業から藤原親光に「対馬守」が代わることとなった、其の親光のことである。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/62c78ea0d0e044f954412374ad46b978

 

さて、この藤原親光の方、日野であった。

日野資憲の息三人には「光」の文字がついている。資憲の父「実光」の「光」から来たと思われる。

俊光・基光・親光 その三人の妹は平教盛に嫁いでいるのである。

 

東京大学史料編纂所 web

  韓客筆語
【著者名】 林信勝[羅山]etc.問 朝鮮信使答

藤原親光については『吾妻鏡』文治元年6月14日条等に記事があり、平氏の軍勢から逃れて高麗に渡った対馬守親光が、従者の猛虎を射た功により、高麗王から厚遇されたが、重宝を得て帰国したという。

 

また、親光の父日野資憲は、長田氏とも関係があり、下記のブログによると

http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/973.html

「因幡国の有力在庁官人であった長田資経が日野資憲との関係からその名を名乗り、保元の乱後はその子実経が平頼盛との関係から平家方となり、知行国主隆季のもと一の谷合戦に参陣した可能性は高いと思われる。

因幡国住人長田兵衞尉実経が召され(頼朝ではなく西国の義経・範頼のもとであろう)、頼朝から文書を与えられている。その内容は、実経は平家に同心したので罪科に処すべきであるが、その父高庭介資経が、平治の乱後伊豆に配流される頼朝に対して一族の籐七資家を派遣したことに免じて、本知行を安堵するというものであった。それだけにとどまらずに、実経は広経に改名し、その子兵衛太郎広雅は幕府引付衆となっている。」と書かれている。

 

さてさて相撲の家でもあった長田氏とこの石見の話が繋がってきたようである。この共通項は「日野氏」

過去に書いたブログの記事と重なるが

「経任(九里の祖経久の父)の兄・中原景経は判官を広橋経光(日野流広橋家)に推薦されている文書が残っている。(1244年)

冨城氏(富木氏)の親戚であった者(伊賀国御家人中原能兼)も日野氏の家司的な職に就いていたのではないかと思われることがあった。
それは、『兼仲卿記』の背面に「能兼申状」が書かれてあった事である。)(=広橋兼仲
ともかく近くにいた事は間違いないと思われる。

能州の若山荘の久能利氏として日野氏の被官と成っていた事。


足利義澄を匿うことになったのも、日野氏との関係もあったかもしれない事。」につながってくる。

 

清原=久利=冨城・富木=中原=九里 となろうと、私は思う。

そして、因幡国住人であった長田氏と因幡国在庁官人であった冨城蓮忍入道は関係があったと思われるのだ。

 

日野氏がキーワードだとすると、

石見守藤原在国は藤原有国の事のようだ。

母親は橘仲遠の娘で、播磨守仲遠である。

上総守橘佐臣とあるので、そこを遡っていくと奈良麻呂に至り、その父は諸兄である。

和歌山の九里の祖の系図に「橘逸勢」の名が見えたという方もいらして、あながち遠くなかったのかもしれない。

奈良麻呂の孫娘に藤原真作に嫁いだものがいる。

 

橘仲遠の娘徳子と藤原有国の息が資業であり、日野氏の祖である。(988-1070)

この資業のもとにいた清原氏が久利氏であったのかもしれない。

 


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