万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

国体は日本人の心の中にあった

2017年03月26日 15時55分53秒 | 日本政治
陛下、退位後は30年ぶり東宮御所へ…政府検討
 1945年7月26日、連合軍は、日本国に対してポツダム宣言を発し、即時降伏を求めました。この時、日本国政府は天皇の地位、即ち、国体の護持が確約されていないとして同宣言の受託を拒否します。

 同年8月15日に昭和天皇の玉音放送を以って同宣言の受託が表明されましたが、その間、突然のソ連参戦により満州から朝鮮半島にかけて日本人の多くが殺戮され、次いで原子爆弾が広島と長崎に投下されました。僅か半月の間に、数十万の日本人の命が失われたのです。甚大なる被害は国体の護持の代償とも言えますが、当時の日本人は、それでも昭和天皇に対して恨み事を述べたり、声高に糾弾する声は殆どありませんでした。こうした日本人の天皇に対する絶対的とも言える崇敬心は、第一次世界大戦敗戦時のヴィルヘルム2世の退位と比較するとよく分かります。ドイツ国内では、皇帝がオランダに亡命したこともあって、退位を惜しむ声は少なく、比較的混乱なく共和制に移行しましたが、日本国では、敗戦に打ちひしがれている国民を勇気づけるために全国各地を行幸した昭和天皇を、国民は熱烈に歓迎したのですから。

 こうした当事の日本国民の天皇に対する格別の思いは、天皇が神話の世界を現代に伝える神聖なる存在であり、”神の子孫”と信じられていたからに他なりません。いわば、日本人の素朴な信仰心と自然に結びついていたのであり、天皇と国民との精神的な絆なこそが、国体というものであったように思えます。しかしながら、敗戦時に際して、”国体の護持”は約束されても、今になって考えても見ますと、当事の妥協は、”花を採って実を捨てた”ように思えます。今日、”神の子孫”とは思えない世俗の欲に塗れた皇室の姿を前に国民の崇敬心は薄まり、国民は、国体の護持のために払われた多大なる犠牲は何であったのか、自問せざるを得ない状況にあります。そして、”菊のカーテン”に隠されてきた事実が漏れ伝わるにつれ、皇室の存在そのものに疑問を感じる国民も増えてきております。

 権威とは、多くの人々がそれを権威として自発的に認める時にしか成立し得ず、人々の心が離れますと、権威もまた消滅します。敗戦時のおいて護持された”国体”とは、結局は、国家における天皇の地位に過ぎず、当事の日本人の心の中にあった”国体”は、皇室の劇的な変質、並びに、内外の政治勢力が背後で蠢いた近代の幕開けにも遡る疑惑を前に、風前の灯となっているように思えるのです。

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コメント (10)
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